調教管理の特色、人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 14:32 UTC 版)
冒頭の通り、牝馬の活躍ぶりから「牝馬作りの名人」と呼ばれた。稲葉自身は調教師時代、「これはあくまで偶然。女馬に縁があるのでしょう。そうとしか言えない」と語っていたが、引退後に行われたインタビューでは、「なるほど、あるとき牝馬の調教について私なりに気付いたことはある」とし、「調教後の食欲不振や発情といった牝馬特有の問題について、経験から解答を得ることもあった」と語っている。稲葉厩舎は競走の前週に仕上げの調教を行うことが知られていたが、これもある牝馬の様子から掴んだ調教法のひとつであった。また、「牝馬に対する当たりの柔らかさには天才的な要素がある」という騎手・嶋田功の存在も重要だったと語っている。ほか良績の要素について、「私がもし人様から成功したと言われるならば、仔分けに徹底したことも一因」と述べている。「早く引退した方が繁殖牝馬として好結果を残す」という経験上の信条から、牝馬は5歳(現表記4歳)での引退を原則としていた。 また、稲葉はレースで実際に跨る騎手に最終追い切りにも乗るように注文を付けた。自厩舎の騎手はもちろんだが、フリー騎手の第一人者と言われた渡辺正人とてそれは例外ではなく、当の渡辺は「追い切りと本番で同一騎手が乗っていれば、勝っても負けても調教が強かったか弱かったかわかるというわけだ」と稲葉の手法を評している。 関西の松田由太郎と公私に渡り親しく、互いに騎手の融通も行っていた。嶋田が1969年の日本ダービーを1番人気で落馬した「タカツバキ事件」のタカツバキは松田の管理馬であり、ディアマンテに騎乗してエリザベス女王杯を制した松田幸春は松田の娘婿であった。元は弁護士志望もあって能弁だった稲葉に対し、松田は寡黙な人物であり、松田の妻・ふじ子は「それで、とても仲が良いのですから、よほど馬が合うんでしょう」と語っている。また稲葉は、兄弟子の藤本冨良を「切磋琢磨した間柄」として挙げている。
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