「世界を変えた一打」と「ザ・キャッチ」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 10:10 UTC 版)
「サンフランシスコ・ジャイアンツ」の記事における「「世界を変えた一打」と「ザ・キャッチ」」の解説
その1933年にはマグローに代わってビル・テリーが選手兼任監督を務め、9年ぶりにリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズでは、ワシントン・セネタース(現在のミネソタ・ツインズ)を破って世界一となった。その後、メル・オット、カール・ハッベル等が頭角を表してきた1936年からも2年連続してリーグ優勝を果たす。しかし、ルー・ゲーリッグ、ジョー・ディマジオ等「新殺人打線」を看板したヤンキースとのワールドシリーズでは、いずれもその軍門に下った。そしてこれが第二次世界大戦前最後の優勝となった。 1940年代に入ると、チームの勢いにも次第に陰りが見え始め、1942年にはテリーに代わってオットが選手兼任監督に就任する。しかし人望はあったものの、温厚でお人好しだったオットではチームをまとめきることができず、成績が上がることはなかった。1948年のシーズン途中でオットは監督を辞任、代わってレオ・ドローチャーがチームを率いる。ドローチャーはシーズン途中までライバルであるブルックリン・ドジャース(現在のロサンゼルス・ドジャース)で監督を務めていたが、それをジャイアンツが引き抜く形となった。ドローチャーはオットとは対照的に、非常に強気な人物として知られ、後に自伝で「お人好しで野球が勝てるか」と暗にオットのような采配を批判している。 戦後初のリーグ優勝はウィリー・メイズがデビューした1951年だった。この年はドジャースと最後までリーグ優勝を争い、3回戦制のプレイオフ第3戦で、ボビー・トムソンが逆転サヨナラ本塁打を放って優勝を決めるという劇的なもので、この本塁打は「その一打が世界を変えた(Shot Heard 'round the World)」とまで言われ、球団史に残る一打となった。しかしワールドシリーズではまたもヤンキースに敗れ、同年限りでの引退を発表していたディマジオに有終の美を飾らせる格好となった。 3年後の1954年、公式戦103勝したヤンキースをさらに8勝上回ったクリーブランド・インディアンスとのワールドシリーズを戦う。第1戦でメイズが史上名高い美技「ザ・キャッチ」で勝ち越しの危機を救うと、直後ダスティ・ローズが代打サヨナラ本塁打を打ち、先勝した勢いに乗って4連勝でインディアンスを下し、5度目の世界一に輝いた。
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