ワシントン・セネタース
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ワシントン・セネタース(Washington Senators)
- 1 ワシントン・セネタースとは
- 2 ワシントン・セネタースの概要
ワシントン・セネタース
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「ミネソタ・ツインズ」の記事における「ワシントン・セネタース」の解説
1901年、アメリカンリーグ創設と同時にワシントン・セネタースとして発足。1902年にフィリーズから移籍したエド・デラハンティが創設間もないセネタースの攻撃陣を引っ張っていたが、翌年ナイアガラ・フォールズからの転落事故で他界する。1904年には球団史上ワーストの38勝113敗を記録するなど、当初は長く低迷していた。1907年、「人間機関車」と呼ばれたウォルター・ジョンソンがメジャーデビューし、リーグ屈指の投手として活躍をするも、打線の援護がほとんどなく、チームも負け越しを続けた。1911年には、シーズン開幕前の3月17日、本拠としていたアメリカン・リーグ・パークが火災により消失。すぐさま新球場ナショナル・パークが着工されたが、当然シーズン開幕に間に合わず、4月12日にほとんど未完成のまま開場することとなった。 1912年、クラーク・グリフィスが監督に就任するとチームは躍進、91勝61敗でリーグ2位となり、球団設立以来、初めて勝ち越した。翌1913年もリーグ2位となったが、その後のシーズンは勝率5割前後が続き、再び中下位で低迷することとなる。1920年、この状況を打開するために、監督であるグリフィス自身が球団を買収し、それと同時に監督を退任した。オーナーとなったグリフィスは、若い選手を中心とした球団運営を目指す。1924年、二塁手として活躍していたバッキー・ハリスを選手兼任監督に据え、初のリーグ優勝を果たす。この年のワールドシリーズでは、ニューヨーク・ジャイアンツと対戦し、最終戦までもつれた末、延長12回の劇的なサヨナラ勝ちでワールドチャンピオンに輝いた。1925年にもリーグ連覇を果たし、強豪チームへと成長することとなった。 1927年、現役を引退したジョンソンが監督に就任。チームも好成績を残すが、リーグ優勝は果たせなかった。1933年、ジョー・クローニンが選手兼任監督に就任すると、その年に3度目のリーグ優勝を果たすが、ワールドシリーズではジャイアンツに1勝4敗で敗れた。セネタースとしての優勝はこの年が最後で、1934年にリーグ7位と低迷すると、クローニンをボストン・レッドソックスに放出、再びハリスが監督に就任するがチーム成績の衰退を止めることはできず、負け越しのシーズンが続いた。ハリスは1942年に解任された後、1950年から1954年にかけても監督を務めたが、リーグ優勝は果たせなかった。1954年にはハーモン・キルブルーがメジャーデビュー、持ち前の強打で1959年には本塁打王に輝いている。1955年に長年オーナーを務めたクラーク・グリフィスが亡くなると、養子のカルヴィン・グリフィス(英語版)がオーナーに就任した。
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ワシントン・セネタース(アメリカンリーグ・1961年から)
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「1960年のメジャーリーグベースボール」の記事における「ワシントン・セネタース(アメリカンリーグ・1961年から)」の解説
ミネソタ・ツインズに変わった旧セネタースの後釜として、同じワシントンを本拠地に新しく結成されたチーム。新セネタースの初代オーナーは連邦航空局の初代局長を務めたエルウッド・ケサダに決まった。監督には旧セネタースのスター選手だったミッキー・バーノン、選手ではヤンキースのボビー・シャンツやジーン・ウッドリングらを指名したが、球団としては低迷が続き、1972年にテキサス州アーリントンへの移転を決め、この球団もワシントンを離れてテキサス・レンジャーズとなった。
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