帝政崩壊後
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「ニコライ・ニコラエヴィチ (1856-1929)」の記事における「帝政崩壊後」の解説
2月革命の発生時、ニコライ大公は任地のカフカースにいた。大公は退位直前の皇帝が最後に行った決定により、ロシア帝国軍最高司令官に復帰を命じられたため、大本営のおかれたモギリョフに現れた。しかし大公が到着して24時間も経たないうちに、臨時政府首班のゲオルギー・リヴォフ公爵はニコライ大公を解任した。ニコライは解任後の2年間をクリミアで過ごしたが、自宅軟禁を政府から命じられていた時期もあったため、クリミアで政治的役割を果たすことはほぼ無かった。一時は南ロシアで活動していた白軍の総司令官にニコライ大公を推す声も挙がったが、アントーン・デニーキンを始めとする白軍の指導者たちは、もし元皇族を最高司令官に推戴すれば、白軍内の左派勢力が離反しかねないと心配していたため、ニコライの復帰は実現しなかった。赤軍がクリミアに迫ってきた1919年4月、ニコライは妻アナスタシヤを伴い、弟一家とともにイギリス海軍の戦艦「マールバラ」号に乗り込んでロシアを脱出した。 1922年8月8日、ニコライはアムール地方を支配していたミハイル・ディテリフス将軍の開催したゼムスキー・ソボルにより、「全ロシアの皇帝」に推戴された。もっとも、ニコライは3年前に出国していたためその場には居合わせなかった。その2カ月後、アムール地方は赤軍に制圧された。 ニコライは義弟のイタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の賓客としてジェノヴァにしばらく身を置いた後、妻を連れてパリ郊外にある小さな城館に移り住んだ。彼はフランス秘密警察の保護下に置かれており、また信頼のおける何人かのコサック退役兵も大公の身辺を警護していた。ニコライ大公は反ソヴィエトの君主制支持運動の中心人物であり、ピョートル・ヴラーンゲリとともにロシア全軍連合を率いていた。全軍連合はソビエト・ロシアに諜報員を送り込むことを計画し、実際に何人かのスパイを送り込むことに成功したが、この任務を引き受けたイギリス人の有名スパイ、シドニー・ライリーは後にソヴィエトに摘発されて処刑された。ソビエト秘密警察の幹部たちは報復にニコライ大公を誘拐しようと試みたが、この作戦は失敗に終わった。1927年には、君主制支持者組織はモスクワのルビャンカ刑務所に爆弾を仕掛けることにも成功した。 ニコライ大公は1929年1月5日、避寒のために訪れていた南仏のリヴィエラで、老衰のために亡くなった。
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帝政崩壊後
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1974年、ハイレ・セラシエはクーデターで帝位を逐われた。エリトリアではELFとEPLFは和解し、エチオピア政府軍に対して共同で作戦にあたることになった。エチオピア革命によってメンギスツ・ハイレ・マリアムは、エリトリア出身で独立に対して理解のあったアマン・アンドムによる臨時軍事行政評議会(PMAC)の政権の後にアマンを11月22日に軟禁(翌日殺害)する。テフェリ・バンテ国家元首による代行を挟んで12月12日にはメンギスツは「社会主義宣言」を行い、翌1975年2月11日には大統領兼PMAC議長兼国家元首として政権を執った。デルグ政権と呼ばれるマルクス主義独裁軍事政権となる。「デルグ(derg)」とはアムハラ語で「委員会」の意で、PMAC全体を指す場合のほか、急進派の軍部調整委員会を指す場合もある。この革命の結果、エチオピア政府はソビエト連邦の影響下に置かれることになった。社会主義を採用することを宣言したエチオピア政府は土地の国有化及び農業の集団化を推し進めたが、これはエリトリアで古くから行われてきた農地の分割相続と対立し、帝政崩壊の後一旦小康状態を保ったエリトリア情勢は再び不穏な状態になった。 帝政崩壊後、1976年にEPLFと決裂したELFから複数のグループが分派した。一部はアラブ諸国に近いエリトリア解放戦線人民解放軍(ELF-PLF)を形成し、一部は中国に近いEPLFに合流した。1970年代後半には、EPLFはエチオピア政府と戦うエリトリア人武装集団の中で指導的な地位を獲得するに至った。この時の指導者はラマダン・モハメッド・ヌール(Ramadan Mohammed Nur)EPLF書記長で、副書記長はイサイアス・アフェウェルキだった。1974年の革命の際にエチオピア陸軍から多くの装備を鹵獲した。 この間、帝政時代と同じようにデルグは自らの力だけでは民衆を抑えることができなかった。各地の守備隊への補給を確実に行うため、軍は民衆に恐怖を植え付ける戦術を行った。例としてエリトリア北部のバシク・デラでは1970年11月17日に全村民をモスクに軟禁した上でモスクを完全に破壊し、生存者を射殺した。こうした虐殺方法は主にエリトリアのイスラム教徒居住地域、、シェエブ(メンシェブとも呼ばれる。She'eb、Mensheb)、ヒルギゴ(Hirghigo,Hirgigo)、エラベレド(Elabered,Elabared,Elabored,Ela Beridi)、オム・ハジェル(Om Hajer)等で行われた。大量殺害はイスラム教徒居住地域に限らず別の方法でキリスト教徒居住地域や他の地域でも行われた。
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