党の分裂
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党の戦争支持の方針に反対したのは当初カール・リープクネヒトやローザ・ルクセンブルクら急進左派だけであり(彼らはドイツ共産党の前身たる非合法反戦組織「スパルタクス団」を結成した)、修正主義派や中央派は党の方針に従っていた。しかし1915年に入った頃には短期決戦の見込みが破たんし、急進左派以外にも方針への不満が広がり始めた。社民党共同党首で中央派のフーゴー・ハーゼは「国民の連帯とは社会的・政治的要求の停止を意味しない」と主張して「城内平和」を批判し、党内反対派「ハーゼ・グループ」を形成するようになった。1915年春以降戦争目的論争が起きると修正主義派のベルンシュタイン、中央派のカウツキーら党の長老がこの「ハーゼ・グループ」に加勢するようになったため勢いを増した。 1914年12月の段階では帝国議会の戦時公債承認採決で賛成票を投じなかった社民党議員は、急進左派のリープクネヒトだけだったが、1915年3月の戦時公債を計上した予算案の決議の際にはハーゼら30名の社民党議員が党の方針に造反して議場から退席した。同年6月にはハーゼ、ベルンシュタイン、カウツキーが連名で「現下の急務」を発表して戦前の原則へ立ち返るべきことを要求し、同年12月21日の戦時公債承認の採決では、社民党議員団のうち20名の議員が反対票を投じ、22名の議員が退場するまでに反対派が拡大した。 これに対してエーベルト、シャイデマン、オットー・ヴェルスらが率いる社民党多数派は反対派への締め付けを強化し、1916年3月24日に臨時予算に反対したハーゼら造反議員18名を社民党議員団から除名した。以降ハーゼらは社民党議員団と別の議員団「社会民主協働団(ドイツ語版)」を構成するようになった。多数派と反対派の対立は激しさを増していったが、反対派の言論は検閲や集会禁止によって妨げられたので、政府と近しい多数派は有利だった。反対派の手中にあった党機関紙『フォアヴェルツ』も当局の助けを借りて多数派が奪還している。 戦争の長期化で食料欠乏は深刻化し、1916年から1917年の冬は最初の「キャベツの冬」(キャベツで飢えを凌ぐ冬という意味)となった。さらに「祖国援助勤労奉仕に関する法律」が制定されたことで強制労働の負担が大きくなり、国民の不満は高まっていた。1917年2月にロシアで革命が発生したこともあって、ドイツでも革命気運が高まった。社民党内の反対派の勢いも高まり、1917年4月初めに潜水艦作戦と帝政崩壊後のロシアの将来に関する論争が引き起こされると、反対派はハーゼを党首とするドイツ独立社会民主党(USPD)を結成するに至った。独立社民党は「スパルタクス団」も取り込み、「帝国主義戦争」の原理的反対者による強力なブロックと化した。
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