日本未来の党の分裂と党名変更
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「自由党 (日本 2016-)」の記事における「日本未来の党の分裂と党名変更」の解説
小沢一郎は民主党内において最大派閥を率いていたが、野田内閣の施策への反対や党内の権力闘争などの結果、2012年に自派の議員を引き連れて離党、国民の生活が第一を経て2012年11月28日に設立された日本未来の党に参加する。同党は左派新政党の集合体であったが、12月16日の第46回衆議院議員総選挙で議席を61から9に減らす惨敗を喫する。直後、代表の嘉田由紀子と国会議員の大半を占める小沢系議員との対立が激化した。対立は収まらず12月28日、小沢系とそれ以外とで分党することを決めた「共同宣言」を発表するに至った。日本未来の党は非小沢系議員を離党させた上で党名を「生活の党」に改称し、新代表に森裕子が就任、12月28日に総務省へ届け出た。結党時点で、国会議員15人(衆7・参8)であった。その後、幹事長兼国会対策委員長に鈴木克昌が就いた。嘉田と社民党出身の阿部知子は分党組織として日本未来の党の名称を引き継いた政治団体「日本未来の党」を立ち上げ、国民新党出身の亀井静香は離党した。分裂について、嘉田は「(小沢氏と)水と油のような異質性が力を発揮できると思ったが、結果的にうまくいかなかった」と述べたほか、阿部も「成田離婚だ」と言い表した。小沢らの動きを党を「乗っ取った」と評したメディアもある。 なお、こうした経緯により、政党助成法に基づいて、2013年の政党交付金(8億6500万円)は生活の党が全額受け取った。
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日本未来の党の分裂と党名変更
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「自由党 (日本 2016-2019)」の記事における「日本未来の党の分裂と党名変更」の解説
小沢一郎は、民主党内において最大派閥を率いていたが、野田内閣の施策への反対や党内の権力闘争などの結果、2012年に自派の議員を引き連れて離党、国民の生活が第一を経て2012年11月28日に設立された日本未来の党に参加する。同党は左派新政党の集合体であったが、12月16日の第46回衆議院議員総選挙で議席を61から9に減らす惨敗を喫する。直後、代表の嘉田由紀子と国会議員の大半を占める小沢系議員との対立が激化した。対立は収まらず12月28日、小沢系とそれ以外とで分党することを決めた「共同宣言」を発表するに至った。日本未来の党は非小沢系議員を離党させた上で党名を「生活の党」に改称し、新代表に森裕子が就任、12月28日に総務省へ届け出た。結党時点で、国会議員15人(衆7、参8)であった。その後、幹事長兼国会対策委員長に鈴木克昌が就いた。嘉田と社民党出身の阿部知子は分党組織として日本未来の党の名称を引き継いた政治団体「日本未来の党」を立ち上げ、国民新党出身の亀井静香は離党した。分裂について、嘉田は「(小沢氏と)水と油のような異質性が力を発揮できると思ったが、結果的にうまくいかなかった」と述べたほか、阿部も「成田離婚だ」と言い表した。小沢らの動きを党を「乗っ取った」と評したメディアもある。 なお、こうした経緯により、政党助成法に基づいて、2013年の政党交付金(8億6500万円)は生活の党が全額受け取った。
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