人民党の分裂と勤労人民党結成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/04/11 12:20 UTC 版)
「勤労人民党」の記事における「人民党の分裂と勤労人民党結成」の解説
しかし、1946年5月に第一次米ソ共同委員会が臨時政府組織の参加を巡って、決裂すると、人民党内部の非呂運亨派が朝鮮共産党や朝鮮新民党内の合同推進派と合同して11月に南朝鮮労働党を結成したことで、人民党は分裂した。そのため、呂運亨は新民党や共産党内の合同反対派と共に新たに「社会労働党」(사회노동당)を結成したが、激しい政争に巻き込まれて政党としての機能を喪失したため、1947年2月に解党し、5月24日に改めて呂運亨支持派を結集して「勤労人民党」(勤民党)が結成された。勤民党は、南朝鮮労働党との協力関係を維持しつつ活動したが、旧人民党系と旧社会労働党系の激しい党内抗争に見舞われた。そして、呂運亨が1947年7月19日に、韓智根の狙撃を受けて死亡したことで、勤民党は弱体化し、瓦解した。
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