人民党と自治党の対立
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「ダルマチア王国」の記事における「人民党と自治党の対立」の解説
1860年、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は帝国の憲法上・政治上のあり方を更新すると決定し、拡張された帝国議会を召集した。クロアチア王国及びスラヴォニア王国の代表であるアンブローズ・ヴラニツァニとヨシプ・ユーライ・シュトラスマイエルは、クロアチア=スラヴォニア王国とダルマチア王国の統一について疑問を投げかけた。ダルマチアの代表であるフラーネ・ボレーリは、イタリア人は確かにダルマチアの少数派であると述べたが、イタリア人は統一の適切な時期であるとは信じていないとも述べた。当時、ダルマチアには2つの対立する政党が存在した。ミホ・クライッチとミホヴィル・パヴリノヴィッチが率いるクロアチア民族主義の革新派である人民党と、アントニオ・バジャモンティとルイージ・ラペンノが率いるイタリア民族主義の保守派である自治党である。自治党は、ダルマチア総督ラザル・マムラ、ザダル市とスプリト市、他のいくつかの小さな都市と地方自治体、そして統一が成立した場合にクロアチア=スラヴォニア王国とハンガリー王国、そしてオーストリア帝国全体が弱体化することを恐れたウィーンの裁判所によって支持されていた。一方で人民党は、スタリー・グラード、ヴルボスカ、メトコヴィチ、ボル、ドゥブロヴニクとコトルで支持されていた。人民党の政策の要点は、ダルマチアとクロアチア=スラヴォニアの統一と、行政と教育におけるクロアチア語の導入であった。 1860年にザグレブで開催されたバン会議の招集の際に、ダルマチアの代表が統一について議論するため招待されたが、マムラに支持される自治党は、会議の主導を妨害した。ダルマチア国会は1861年に最初に召集され、ダルマチア人口の約20%を占めるに過ぎない大地主、書記官、裕福な市民の代表が大きな利点を持っていた不公平な選挙制度の影響もあり、自治党が議席の過半数を占めた。こうして成立した国会はダルマチア王国のクロアチア王国及びスラヴォニア王国との統一を拒んだ。1866年に起こった普墺戦争に伴う第3次イタリア独立戦争ではヴィス島沖でリッサ海戦が行われ、オーストリアは両戦争での敗北によって未回収のイタリアを除く北イタリアを喪失した。翌1867年、アウスグライヒによってオーストリア=ハンガリー帝国が成立すると、オーストリア帝冠領とハンガリー王冠領の分裂が強化され、ダルマチア王国とクロアチア王国及びスラヴォニア王国の統一は遠ざかった。これを受けて野党である人民党はダルマチアをクロアチア化するための政治・文化的闘争に再帰し、特に学校教育に焦点を当てて教育言語としてのクロアチア語の導入を求めた。この目的は、自治体の管轄であった学校の教育課程に手を加えることで、自治体での支持を獲得することであった。1862年、人民党はイタリア語を母語とする有権者の支持を獲得するために、イタリア語の週刊誌「Il Nazionale」を立ち上げた。人民党は後にクロアチア語の週刊誌「Narodni list」の発行も開始した。1869年、ミホヴィル・パヴリノヴィッチはクロアチアの政治計画「Hrvatska misao」を記し、クロアチア独立の権利とダルマチアを含むすべての「歴史的なクロアチアの領土」を含む統一立憲クロアチア国家の設立を提唱した。 1869年10月、クリヴォシイェ蜂起と呼ばれる武装蜂起がコトル湾後背地のクリヴォシイェで発生した。 この蜂起は、1866年の普墺戦争におけるケーニヒグレーツの戦いでのオーストリア帝国に対するプロイセン王国の決定的な勝利によって、帝国政府が伝統的に徴兵を免除されていたクリヴォシイェの民衆に強制徴兵を課したことで発生した。徴兵制によって水夫は海での労働を奪われ、山に住んでいた人々は武装解除によってヘルツェゴビナで大小の牛を狩る機会を失った。徴兵制が再び廃止され、民衆の武器保有が許可されたのは、1870年1月11日に和平協定が締結されたときであった。 人民党と自治党の間の緊張が高まるにつれて、ますます衝突は激しくなっていった。 1869年7月31日、水路学視察のイタリア船で、イタリアの船員とクロアチアのシベニク市民とが衝突し、14人のイタリア人船員と数人のクロアチア人が重傷を負った。この衝突はイタリア王国とオーストリア・ハンガリー帝国の間の外交問題に発展し、モンツァンバーノ事件として知られている。この期間に人民党はより組織化され、ダルマチア後背地と島嶼部で徐々に勢力を拡大、1870年の選挙では遂に国会の議席の過半数を獲得した。 1873年2月15日、党はシベニクでの選挙に勝利し、アンテ・シュプクが市長に選出された。主要都市では初の勝利であった。1882年には、自治党の準軍事組織による脅迫と暴力を押しのけて人民党のガジョ・ブラトが自治党のアントニオ・バジャモンティを破り、スプリト市長となった。その後まもなく、人民党はスタリー・グラードとトロギルでも勝利し、自治党はザダル以外の主要都市を失った。人民党の躍進によって、1883年、クロアチア語はダルマチア国会の公用語となった。 同時に、クロアチア語の学校の新設も進んだ。 1866年にはクロアチア語教師学校(クロアチア語: Hrvatska učiteljska škola )がザダルに近いアルバナシで開校され、1883年時点で、クロアチア語教育を行う小学校は約300校、高校は3校(ドゥブロヴニク、コトル、スプリト)もの規模になっていた。さらに1898年には、クロアチア語のギムナジウムがザダルに開設された。
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