人民共和国の成立と余生
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「ゲオルゲ・タタレスク」の記事における「人民共和国の成立と余生」の解説
タタレスク派が国民自由党として始動した際に、タタレスク派とルーマニア共産党との間で緊張が発生したが、両者は新政権の下で財産と中流階級の保護を目指すことを宣言した。以下は、タタレスクが自身の主義について述べたものである。 「私は共産主義者ではない。私の人々や社会、財産に対する姿勢から言えば、共産主義者ではない。だから、私がこの国のために要求した対外政策の方針について、私の愛着や支持によって決定されたものだ、と非難される理由はない。」 また、ゲオルギウ=デジは自身の回顧録にて、ルーマニア共産党とタタレスク国民自由党との関係について、「我々はあの資本主義者ども、タタレスクの連中を、我々の方から多めに見てやる必要があったのだ」と語った。 タタレスク自身は、ルーマニア共産党の掲げる政策に対しての支持を続けていた。1947年にアメリカ合衆国がルーマニア国内の反対勢力を武力鎮圧したことに対して、抗議声明を発したが、タタレスクはこれに対して強く非難した。そのような関係でありながら彼は同時期にグローザ内閣の批判文書を出版、ミロン・コンスタンティネスク(英語版)によってルーマニア共産党の機関紙内で始められた攻撃の標的となった。結果として、ユリウ・マニウの人民裁判(タマダウ事件(英語版))において、タタレスクの省庁の官僚の政治謀略が主張された際に、職務怠慢によってやり玉にあげられることになった。ルーマニア共産党の機関紙『スクンティア』は、タタレスク国民自由党の全党員に関して、「腐敗物どもは全て包囲した、排除すべき」と記した。 1947年11月6日にタタレスクは罷免され、アナ・パウケルが後任を務めることになった。彼はルーマニア共産党の圧力によって自身の政党に追いやられ、1948年の1月には党首から降ろされた。後任はペトレ・ベジャンが務めることになり、その後はペトレ・ベジャン派国民自由党と呼ばれるようになった。タタレスクの最後の仕事は、マーシャル・プランの拒否文書に調印することであった。 1947年12月30日にルーマニア人民共和国の成立が宣言された後、ルーマニア共産党以外の政党は形骸化し、同年5月28日の選挙によって一党制が法定された。1950年5月5日にタタレスクは逮捕され、ステファン・タタレスクら3人の兄弟と協力者であったベジャンと共に、有名なシゲト刑務所(英語版)に拘留された。パリに住んでいた息子のテュードル・タタレスクは、1950年以来統合失調症を患って施設に通わなければならなくなり、彼は1955年にそこで死亡した。娘のサンドラ・タタレスク・ネグロポンテも1950年に逮捕されたが、ヨシフ・スターリンが死亡したのと同時に、3年後に釈放された。 タタレスクの最後の公衆への露出の一つが、1954年のルクレツィウ・パトラシュカヌの裁判への、検察側証人としての出廷であった。その際に彼は、パトラシュカヌはタタレスクが首相の頃にルーマニア共産党に潜入していた、と主張した(死後にパトラシュカヌは名誉回復されている)。1955年に釈放され、その僅か2年後にブカレストにて死亡した。サンドラ・タタレスク・ネグロポンテによると、死因は拘留中に感染した結核であった。
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