裁判へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 09:58 UTC 版)
「キャサリン・オブ・アラゴン」の記事における「裁判へ」の解説
翌1528年1月、ヘンリー8世とフランソワ1世は、カール5世に対して宣戦布告する。戦争が膠着する中、ウルジーは3月23日に教皇クレメンス7世の下に到着し、離婚容認への圧力をかけ、板挟みになった教皇はイングランドでの教会裁判を許可した。9月に教皇特使ロレンツォ・カンペッジョ(英語版)がロンドンに到着する。しかし、教会法に精通した国王側と、ユリウス2世の結婚許可の勅書を提出した王妃側の対立は深く、事態は一向に進展しなかった。 10月25日、キャサリンはカンペッジョと面会し、アーサー王太子と同衾したのは7夜のみで、処女であったことを告解する。カンペッジョは、王妃の修道院入りを勧めていたが、全てを神と教皇に委ねる王妃の姿に感銘を受ける。 もはや離婚の意図を隠すことが出来なくなったヘンリー8世は、11月8日、ブライトウェル城で議会、主要貴族らを招集し、正式に離婚の意思を表明したが、周囲の反応は冷ややかだった。 1529年5月30日、ブラックフライアーズ教会で、教会裁判が開廷した。裁判には国王と王妃自身も召喚され、国民は驚くとともに教皇の権威を感じることとなった。双方の主張は従来通り平行線であり、7月に教皇はこの問題をローマに移管することを決定する。7月23日、カンペッジョは10月1日までの休廷とローマへの移管を宣言する。 同時期、フランス軍の敗北により、コニャック同盟戦争はカール5世の勝利によって終結した(貴婦人の和約)。そして、ウルジーは国王の離婚問題の解決に連続して失敗したため、ついに罷免された。
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