裁判の証言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/16 17:21 UTC 版)
結婚して11年半ほど経った1536年5月1日、ジョージは姉アン王妃と性的関係を結んだ容疑で逮捕され、ロンドン塔に収監された。この告発に関する妻ジェーンの証言はジョージの姦通、近親相姦、そして反逆罪を立証することになる。ジェーンはジョージとアンは1535年の冬から性的関係を持っていたと思うと証言し、この証言は、1536年春にアンが流産により失った胎児の実の父親はジョージであるとする噂が事実であると、強く示唆するものだった。こうした悪意のある噂は、当時の圧倒的大多数の証言者たちにより事実無根だったと確証されているが、ジェーンの証言はブーリン家の敵対者たちがロッチフォード卿を断頭台に送るための、格好の口実を提供した。 ジェーンが取り調べで話した夫に関する衝撃的な陳述は、夫婦関係の悪化と、おそらくは夫と義姉アンの親密な結びつきに対する嫉妬を原因とする怨恨のなせる業だったのかもしれない。少なくとも、同時代人や後世の人々の多くは、ジェーンの行動の原因にそのような理由付けをした。また後世の歴史家たちは、1536年のジェーンの証言が夫と義姉との間に罪深い出来事があったとする上で最も信頼される証拠となったと信じており、このことがジェーンが歴史家の間で悪い評価を受ける原因になっている。例えば、事件の当事者たちから2世代後のエリザベス朝人で、祖父や父がブーリン家と親しかったジョージ・ワイアット(英語版)は、ジェーンのことを「邪悪な妻で、夫を告発した張本人であるばかりか、夫の血が流されることすら望んだ」と評している 。事件から1世紀後、あるイングランド人の歴史家は、ジェーンの証言は、アンの卓越した世渡りの才能や、ジョージが妻よりも姉アンを慕って傍を離れないことに対する嫉妬心からを抱くようになった、アン王妃に対する純粋な「抜き難い憎しみの心」から生まれたものだと述べている。ジョージ朝およびヴィクトリア朝の歴史家たちは、6年後の1542年に訪れたジェーンの刑死を道徳的正義の勝利と見なし、「悪名高いロッチフォード夫人は…アン・ブーリンおよび彼女自身の夫を断頭台に送り込んだ過去に関して、それに完全に見合った報いを受けることになった」とした。 しかし現代のジェーンの伝記作家ジュリア・フォックスは上記のようなジェーン本人に対するネガティブな人物評を一蹴する。フォックスによれば、ジェーンは実際には義姉のアン王妃とは情の通った友好的な関係であり、ジェーンの証言は1536年に起きたブーリン家排除の宮廷クーデタの恐慌の中で引き出されたもので、ブーリン家の敵対者たちは彼女の証言を好きなように捻じ曲げたのだ、としている。フォックスはブーリン家の没落について次のように説明する、「ジェーン・ロッチフォードは様々な策略、暗示、思惑の入り乱れる渦の中に放り込まれていた。クロムウェルに召喚された時、ジェーンはすでに彼が何を欲しているかを大よそ悟っていた。つまりアンとその取り巻きたちを失墜させ、王がジェーン・シーモアと結婚できるように邪魔者を消し去ること…ジェーン[・ロッチフォード]に投げかけられた問いは、重苦しく言い逃れの出来ないものだった…ジェーンは絶え間なく無慈悲な質問攻めに遭わされ、何らかの返答をするほか無かった。ジェーンはきっと彼女の身の周りで起きたどんな小さな出来事でも記憶の中から手繰り寄せようとしただろう…[それでも]ジェーンは告げ口をためらっただろうが、容赦ない恫喝に脅かされ…ついに脅しに屈してしまったのである。後世の人々は、ジェーンの苦し紛れの証言が、無実の妻を手早く葬り去ろうとする王に格好の口実を与えたとして、彼女を槍玉に挙げた。そしてジェーンこそヘンリー[王]をだまし、アンとジョージを破滅させた張本人だとする非難を続けてきたのである」。
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