初期の犯罪歴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 07:51 UTC 版)
判明しているアルカラの最初の犯罪は1968年のことである。ロサンゼルスにおいて、8歳の少女がアルカラに連れ去られる現場を目撃したある運転手が、ハリウッドのアパートまで追跡し、警察に通報したのである。少女は強姦され、鉄筋で殴打された状態で発見されたが奇跡的に生き延びた。しかし、警察が到着した時にアルカラは逃走してしまった。 この事件の逮捕状を回避するために、アルカラはカリフォルニア州を離れ、"ジョン・バーガー"という偽名を使用して、ニューヨーク大学映画学校に入学した。1971年に、彼はニューハンプシャー芸術キャンプで子供のためのカウンセリングの仕事を得た。1971年6月には23歳の客室乗務員がマンハッタンのアパートで強姦され、絞殺されているのが発見された。この殺人は2011年まで解決されることはなかった。 FBIは1971年初頭、アルカラを「FBI10大最重要指名手配」リストに追加した。数ヵ月後、芸術キャンプに通う2人の子供は、郵便局でFBIのポスターに彼の写真があることに気が付いた。これにより、アルカラは逮捕され、カリフォルニアに引き渡された。 しかしながら、最初の被害者である当時8歳の少女は家族と共にメキシコに引っ越してしまい、少女は裁判で証言することを拒否した。被害者の証言もなく裁判において強姦罪と殺人未遂として起訴することができないと判断した検察官は、より少ない襲撃容疑でアルカラに有罪を認めさせることを余儀なくされた。アルカラは1974年に当時一般的だった「未期限の刑 (Indefinite imprisonment・indeterminate imprisonment)」プログラムの下で17か月後に仮釈放された、これは仮釈放委員会に対し、受刑者が更生したことを示すだけでいつでも釈放することができる、というものだった。しかし、釈放されてから2ヵ月もしないうちに、彼は13歳の少女を暴行し、再逮捕された。しかしながら、またしても彼は「未期限の判決」を受けて2年で仮釈放されてしまう。 アルカラの2回目の釈放後の1977年、彼を担当していたロサンゼルスの保護司は、常習犯で逃亡のおそれがあるアルカラに、ニューヨークへの渡航を許可してしまうという間違いを犯す。ニューヨーク市警察の未解決事件専門の捜査官は、アルカラがマンハッタンに到着してから1週間後に殺人を犯したとしている。被害者とされる人物はハリウッドの人気ナイトクラブCiro'sのオーナーの娘で、ディーン・マーティンとサミー・デイヴィスJr.が名付け親だった 。 1978年、アルカラはロサンゼルス・タイムズにおいて組版係として短期間働く。この時、ヒルサイド・絞殺魔事件の捜査タスクフォースの一員から、捜査の一環として既知の性犯罪者として事情聴取を受ける。容疑者からは外されたものの、マリファナ 所持のために逮捕され短期間刑に服した。 この頃、アルカラはプロのファッション写真家を騙り、何百人もの若い男女を騙して「ポートフォリオ」を撮影していた。ロサンゼルス・タイムズの同僚によると、アルカラは同僚達にそれらの写真をみせていたという。「変だとは思ったけれど、当時は私も若かくて何も分かってなかったから」と話している。彼女は「なぜそういった写真を撮るのかと尋ねたら、彼は『母親達が撮影するように頼んできたからさ』と答えていました。女の子は裸だったのを覚えています」と証言した。1979年にアルカラに撮影を許可したある女性は「彼はプロだと言っていたので、私の頭の中では私が彼のモデルになっていた」と語った。アルカラの写真ポートフォリオには、10代の少年の裸の写真が多数あった。写真のほとんどは性的に露骨なもので、被写体となった人達のほとんどのは未だ身元の確認がとれないままとなっている。警察は、被写体の中に未解決事件の被害者が含まれるのではないか、としている。後の裁判の証言によると、1979年にのMonique Hoytという15歳の少女が彼の写真のためにポーズを取っているところを、アルカラに殴り倒されて、気絶したところを強姦されたという。
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