初期の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 00:57 UTC 版)
1870年、皇帝ナポレオン3世統治下のフランスには艦船470隻を擁する海軍があり、これを上回るのはイギリス海軍のみであった。北ドイツ連邦が保有していた艦艇の数は、その1/10をわずかに上回るのみであり、5隻の装甲フリゲートで北ドイツ(英語版)の海岸線を守ろうと試みた。もしフランスが海上における優勢を有効に活用できていれば、その戦争への影響は大きかったと言われている。 本来、ナポレオン3世は海軍兵9,000名と予備役軍人20,000名から構成される兵団を上陸させる計画を立てていた。道路網は沿岸からかなり離れていたため、北ドイツ連邦がこれに対抗して部隊を派遣することは困難だったのである。この点はフランス側も意識していた。上陸作戦と海上からの艦砲射撃によって、少なくともプロイセン軍(英語版)160,000名を拘束しようとしていたのである。他方、プロイセンはフランスの派遣軍(英語版)がポンメルンを通過し、ポーランド人の蜂起を惹起するのではないかと危惧していた。海上封鎖が実施されれば北ドイツ連邦の経済は著しい損害を被り、何より重要な物資の輸入を断たれていた所であった。 さらにフランスは、デンマークとの同盟を目指した。数年前にはまだ、プロイセンと交戦状態にあったこの国は50,000名の陸軍と、特筆に値する海軍を擁していた。しかしデンマークの参戦は、フランスが独力で上陸作戦を成功させなくては期待もできなかった。フランスは現実を顧みることなく、シュレースヴィヒ=ホルシュタインにおけるデンマーク人の蜂起を見込んでいた。しかし結局はイギリスとロシアの圧力に影響を受け、デンマークは中立を保っている。 主要な問題は、装甲艦12隻を擁する重要なフランス地中海艦隊が1870年7月4日には、まだマルタへ派遣されていたことであった。これをせめて大西洋沿岸のブレストへ移動させるには、3週間はかかった。その理由は、艦隊と電信で連絡を取るのが部分的に困難であったこと、そして休暇を返上させて兵役義務を持つ者を召集するために時間が必要だったことである。艦隊は8月の第2週、ようやく北海に到着する見込みであった。こうしてモルトケのフランス侵攻は阻めず、10月には嵐が北海の航行を困難なものにしていた。またこの遅延には、海軍大臣(英語版)が皇帝の従弟、ジェローム・ナポレオン・ボナパルト(英語版)に指揮権を与えまいとあらゆる手段を講じなければいけなかったことも関係がある。その後、フランスは8月3日の決定に見られるように、万難を排して派遣軍を編成することができなかった。「フランス軍にとり、これは戦略上の災難であった」とジェフリー・ワヴロ(英語版)は述べている。なぜならプロイセン軍は、結果として阻まれることなくフランス国境へ急行できたからである。
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