初期の生活とキャリア(1949年 - 1972年)
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「リチャード・トンプソン (ミュージシャン)」の記事における「初期の生活とキャリア(1949年 - 1972年)」の解説
リチャード・トンプソンはイギリスのウェスト・ロンドン、ノッティング・ヒルのラドブローク・クレセントに生まれた。スコットランド人の父親はスコットランドヤードの刑事兼アマチュアのギター演奏家であり、他の数人の家族はプロの音楽演奏家だった。ハイゲートのウィリアム・エリス校に在校中、最初のバンドである「Emil and the Detectives(同名の本および映画から命名)」を、旧友で、後のストラングラーズのリードボーカル兼ギタリストであるヒュー・コーンウェルとともに結成し、ベースを担当した。同年代の多くのミュージシャン同様、トンプソンは若くしてロックンロールの洗礼を受けるとともに、父親のジャズおよび伝統的なスコットランド音楽のレコード・コレクションの影響を受けた。父親は1930年代にグラスゴーでジャンゴ・ラインハルトの演奏に接し、自身もギターを弾くようになった。後に「酷いアマチュア・プレイヤーだった……使うコードは3つだけなのだが、酷いことにC、F、Gじゃなかったんだ」と息子に語られている。これらの音楽ジャンルのすべては後のトンプソンの演奏に影響を与えている。 ジョー・ボイド曰く: 彼はだいたいどんなスタイルでも真似できて、そうするんだが、簡単に聴き分けることができる。彼の演奏からは、バグパイプのドローン音であったり、バーニー・ケッセルやジェームズ・バートンのギターやジェリー・リー・ルイスのピアノのエコーのような詠唱の旋律なんかを聴くことができる。だけどブルースのフレーズはない。 18歳の時には共同創設メンバーとして、新たに結成されたフェアポート・コンヴェンションで演奏するようになっていた。トンプソンのギター演奏はアメリカ人プロデューサー、ジョー・ボイドの耳を引き付けた。主にトンプソンの演奏の力強さから、ボイドは彼らの面倒を見るようになり、自身のウィッチシーズン・プロダクション&マネージメント・カンパニーと契約させた。 ボイド曰く: アメリカの音楽を演奏していマスウェル・ヒル・グラマー・スクールの男女混成による素晴らしいグループがいた。レナード・コーエンの歌、リチャード・ファリーニャの歌、ボブ・ディランの歌などが、ウェストコースト・ロック・スタイルで演奏されていた。そしてギター・ソロの番だ。リチャードはすごいソロをやっていた。彼はジャンゴやチャーリー・クリスチャンを引用したソロを弾いていて、信じられないほど洗練された小さなソロだった。そして、彼の洗練された幅の広さには本当に驚かされ……だからギグの後に楽屋に行き「君たち、レコードを作ってくれないか?」と言ったんだ。 その後まもなく、すでに傑出したギタリストとしての名声を得ていたトンプソンは、本格的に曲作りを始めた。これは、フェアポート・コンヴェンションが最初は基本的にカバー・バンドであったため、必要に迫られたわけではなかったようだ。 ギグの後にアシュリー(ベーシストのハッチングス)に言ったのを覚えているのだが、自分たちがこんな曲(カバー)ばかりをやるのは恥ずかしいと思っていたんだ。悪くないんだけど、十分じゃない、1967年ともなるとほかのバンドはオリジナル曲を書いていたので自分たちもそうすべきだと。怒ってアシュリーに言ったのを覚えているよ、これでは十分じゃない、オリジナルの曲を作らなきゃいけないんだ、とね……そうしたら、どんどん曲が浮かんできたんだ。 1969年初頭、フェアポートのセカンド・アルバム『ホワット・ウィー・ディド・オン・アワ・ホリデイズ』がレコーディングされ、リリースされた時には、トンプソンは卓越したソングライターとして頭角を現し始めていた。フェアポートのメンバーと彼らのサウンドが進化するにつれ、トンプソンはプレイヤーとして、また「Meet on the Ledge」のような曲でソングライターとしても成長を続けていた。 1969年5月12日、次のアルバム『アンハーフブリッキング』のレコーディングとリリースの間に、バーミンガムのクラブ、マザーズでのギグからの帰り道、フェアポートのバンが高速道路M1で衝突事故を起こし、19歳だったドラマーのマーティン・ランブルと、トンプソンのガールフレンドだったジーニー・フランクリンが死亡した。バンドの他のメンバーも様々な重症の怪我を負った。その後、1969年、フェアポートは新しいドラマー、デイヴ・マタックスを迎えて再結成し、有名なフィドル奏者、デイヴ・スウォーブリックも招き入れた。トンプソンとスウォーブリックは協力して、バンドの記念すべき1969年のフォークロック・アルバム『リージ・アンド・リーフ』に収録されている「クレージー・マン・マイケル」や1970年の『フルハウス』に収録されている「スロース」などの曲を生み出した。 1971年1月、トンプソンはフェアポート・コンヴェンションを脱退することを明らかにした。彼の決断は計算されたキャリアの動きというよりも本能的なものだったようだ: フェアポートを脱退したのは直感的な反応で、作曲以外は何をしているのかよくわからなかったんだ。何かを書いていて面白そうだったし、レコードを作れたら楽しいだろうなと思った。同じ頃(1970-1971年)に、キャリアについて真剣に考えないようにするためにセッション・ワークをたくさんやっていた。 1972年4月、サンディ・デニー、パット・ドナルドソン、スー・ドラハイム、ジョン・カークパトリック、バリー・ドランスフィールド、アシュリー・ハッチングス、リンダ・ピータース、アンディ・ロバーツらとレコーディングを行った初のソロ・アルバム『ヘンリー・ザ・ヒューマン・フライ』をリリースした。このアルバムは売れ行きが悪く、マスコミ、特に影響力のある『メロディ・メイカー』誌に嫌われた。時が経つにつれ、『ヘンリー・ザ・ヒューマン・フライ』はより高く評価されるようになったが、当時の評論家の反応はトンプソンと彼のキャリアの両方を傷つけた。
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