初期の生活とキャリアとは? わかりやすく解説

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初期の生活とキャリア(1949年 - 1972年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/12 12:38 UTC 版)

リチャード・トンプソン (ミュージシャン)」の記事における「初期の生活とキャリア(1949年 - 1972年)」の解説

リチャード・トンプソンイギリスウェスト・ロンドンノッティング・ヒルのラドブローク・クレセントに生まれたスコットランド人父親スコットランドヤード刑事アマチュアギター演奏家であり、他の数人家族プロ音楽演奏家だった。ハイゲートのウィリアム・エリス校に在校中、最初バンドである「Emil and the Detectives(同名の本および映画から命名)」を、旧友で、後のストラングラーズリードボーカルギタリストであるヒュー・コーンウェルとともに結成しベース担当した同年代多くミュージシャン同様、トンプソン若くしてロックンロール洗礼を受けるとともに父親ジャズおよび伝統的なスコットランド音楽のレコード・コレクションの影響受けた父親1930年代グラスゴージャンゴ・ラインハルト演奏接し自身ギターを弾くようになった。後に「酷いアマチュア・プレイヤーだった……使うコード3つだけなのだが、酷いことにC、F、Gじゃなかったんだ」と息子に語られている。これらの音楽ジャンルのすべては後のトンプソン演奏影響与えている。 ジョー・ボイド曰く: 彼はだいたいどんなスタイルでも真似できて、そうするんだが、簡単に聴き分けることができる。彼の演奏からは、バグパイプドローン音であったり、バーニー・ケッセルジェームズ・バートンギタージェリー・リー・ルイスピアノエコーのような詠唱旋律なんかを聴くことができる。だけどブルースフレーズはない。 18歳時には共同創設メンバーとして、新たに結成されフェアポート・コンヴェンション演奏するようになっていた。トンプソンギター演奏アメリカ人プロデューサー、ジョー・ボイドの耳を引き付けた。主にトンプソン演奏力強さから、ボイドは彼らの面倒を見るようになり、自身のウィッチシーズン・プロダクション&マネージメント・カンパニーと契約させた。 ボイド曰く: アメリカ音楽演奏していマスウェル・ヒル・グラマー・スクールの男女混成による素晴らしグループがいた。レナード・コーエンの歌、リチャード・ファリーニャの歌、ボブ・ディラン歌などが、ウェストコースト・ロック・スタイルで演奏されていた。そしてギター・ソロの番だ。リチャードはすごいソロをやっていた。彼はジャンゴチャーリー・クリスチャン引用したソロ弾いていて、信じられないほど洗練された小さなソロだった。そして、彼の洗練された幅の広さには本当に驚かされ……だからギグの後に楽屋行き君たちレコード作ってくれないか?」と言ったんだ。 その後まもなく、すでに傑出したギタリストとして名声得ていたトンプソンは、本格的に曲作り始めた。これは、フェアポート・コンヴェンション最初基本的にカバー・バンドであったため、必要に迫られたわけではなかったようだギグの後にアシュリー(ベーシストのハッチングス)に言ったのを覚えているのだが、自分たちがこんな曲(カバー)ばかりをやるのは恥ずかしいと思っていたんだ悪くないんだけど、十分じゃない1967年ともなるとほかのバンドオリジナル曲書いていたので自分たちもそうすべきだと。怒ってアシュリー言ったのを覚えているよ、これでは十分じゃないオリジナルの曲を作らなきゃいけないんだ、とね……そうしたら、どんどん曲が浮かんできたんだ。 1969年初頭、フェアポートのセカンド・アルバムホワット・ウィー・ディド・オン・アワ・ホリデイズ』がレコーディングされ、リリースされ時にはトンプソン卓越したソングライターとして頭角現し始めていた。フェアポートのメンバーと彼らのサウンド進化するにつれ、トンプソンプレイヤーとして、また「Meet on the Ledgeのような曲でソングライターとして成長続けていた。 1969年5月12日次のアルバムアンハーフブリッキング』のレコーディングとリリースの間に、バーミンガムクラブマザーズでのギグからの帰り道、フェアポートのバン高速道路M1で衝突事故起こし19歳だったドラマーのマーティン・ランブルと、トンプソンガールフレンドだったジーニー・フランクリンが死亡したバンド他のメンバー様々な重症怪我負ったその後1969年、フェアポートは新しドラマーデイヴ・マタックス迎えて再結成し、有名なフィドル奏者デイヴ・スウォーブリック招き入れたトンプソンとスウォーブリックは協力してバンド記念すべき1969年のフォークロック・アルバム『リージ・アンド・リーフ』に収録されている「クレージー・マン・マイケル」や1970年の『フルハウス』に収録されている「スロース」などの曲を生み出した1971年1月トンプソンフェアポート・コンヴェンション脱退することを明らかにした。彼の決断計算されキャリアの動きというよりも本能的なものだったようだ: フェアポートを脱退したのは直感的な反応で、作曲以外は何をしているのかよくわからなかったんだ。何かを書いていて面白そうだったし、レコード作れたら楽しいだろうなと思った。同じ頃(1970-1971年)に、キャリアについて真剣に考えないようにするためにセッション・ワークをたくさんやっていた。 1972年4月サンディ・デニー、パット・ドナルドソン、スー・ドラハイム、ジョン・カークパトリック、バリー・ドランスフィールド、アシュリー・ハッチングス、リンダ・ピータース、アンディ・ロバーツらとレコーディング行った初のソロ・アルバム『ヘンリー・ザ・ヒューマン・フライ』をリリースした。このアルバム売れ行き悪くマスコミ、特に影響力のある『メロディ・メイカー』誌に嫌われた。時が経つにつれ、『ヘンリー・ザ・ヒューマン・フライ』はより高く評価されるようになったが、当時評論家の反応トンプソン彼のキャリア両方を傷つけた。

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