トゥーレル砦への攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 15:38 UTC 版)
「オルレアン包囲戦」の記事における「トゥーレル砦への攻撃」の解説
ジャンヌは、オーガスティン砦での戦闘で足を負傷しており、治療のために一晩かけてオルレアンに戻ったため、結果的にその晩の軍事会議には参加できなかった。翌7日朝、彼女はブールバール=トゥーレルの最後の戦闘には加わらないように求められたが、これを拒否して立ち上がり、南岸のフランス軍の野営地加わり、オルレアンのほとんどの人々は歓喜した。市民たちは彼女のために課税額を増やして、複合施設への両サイドからの攻撃が可能となるように梁の付いた橋の修理に取り掛かった。サン・アントワーヌ島には大砲が備えられた。 その日は、ほとんど成果の無い砲撃と、燃やした荷船に機雷を仕掛けたり、これを燃やしたりすることで複合施設の基礎を弱体化させる試みが行われた。夕暮れ時が近づき、デュノワは最終攻撃を翌日に持ち越すことを決定した。この決定を知り、ジャンヌは馬を要求し、これに乗ってしばらく祈りのために去った後野営地に戻り、はしごを握りブールバールへの前線での攻撃を開始し、隊に向けて繰り返し「あなた達全員、行きなさい!(Tout est vostre - et y entrez! / All is yours, - go in!)」と叫んだ。フランスの軍人は彼女を追って突進し、ブールバールへのはしごに群がった。ジャンヌは早い段階で、石弓(他の報告ではbodkin arrow)による攻撃で肩を負傷して倒れ、急いで逃亡した。 彼女が死んだという噂がイングランド守備隊を元気付け、フランス軍の士気を低下させた。しかし報告によると、彼女は刺さったボルトを自らの体から引き抜き、負傷にも関わらずフランス軍の戦列に再びすぐに現れ、攻撃隊に新たな元気を与えた(ジャンヌの聴罪司祭のJean Pasquerelは、復権のための裁判の証言で、ジャンヌ自身に、この出来事に対する何らかの予兆または先見の明があったと述べており、攻撃の前日に彼女は「tomorrow blood will flow from my body above my breast」と言っていた)。 フランス軍は勝利し、ブールバールからイングランド軍を撤退させ、最後の砦トゥーレル砦に戻った。しかし、それらを繋ぐ跳ね橋はすでにイングランド軍が手放しており、グラスデール自身が川に落ち、落命していた。フランス軍は両サイドからトゥーレル砦へなだれ込んだ(この時、橋は修繕されていた)。この晩、半焼していたトゥーレル砦を遂に奪取した。 イングランド軍の損失は甚大であった。その日は他の行動をする予定であった(特に防御に向かう援軍の迎撃)イングランド軍は1000人近い死者と600人の捕虜を出した。200人のフランス軍の捕虜が複合施設内で見つかり、解放された。
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