トゥールーン朝との関係
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「ムウタディド」の記事における「トゥールーン朝との関係」の解説
この方針は、新しいカリフが自身の最も強力な臣下であるトゥールーン朝政権に対して示した融和的な態度によってすぐに明らかとなった。893年の春にムウタディドは年間300,000ディナールと未納となっていた200,000ディナールの貢納に加え、ジャズィーラの州のうちディヤール・ラビーア(英語版)とディヤール・ムダル(英語版)をアッバース朝の統治下に戻すことと引き換えにフマーラワイフをエジプトとシリアの自立したアミールとして承認し、その立場を再確認した。条約を締結するためにフマーラワイフは娘のカトル・アン=ナダー(英語版)(「露の滴」を意味する)をカリフの息子の一人に花嫁として差し出したが、ムウタディドは自ら結婚することを選んだ。トゥールーン朝の公女は持参金として1,000,000ディナールを持ち込んだ。歴史家のティエリ・ビアンキによれば、これは「中世のアラブの歴史の中で最も贅沢であると考えられた結婚祝い」であった。バグダードへのカトル・アン=ナダーの到着は、貧窮化していたカリフの宮廷とは全く対照的な公女の従者の豪華さと贅沢さが特徴をなしていた。ある言い伝えによれば、徹底的な調査の結果、ムウタディドの宦官の長官は宮殿を飾るための細かい装飾が施された銀と金の燭台を5つしか見つけることができなかったが、一方で公女にはそれぞれ同様の燭台を持つ150人の召使いが随行していた。するとムウタディドは、「さあ、我々が困窮しているところを見られないように立ち去って身を隠そう」と語ったといわれている。 しかしながら、カトル・アン=ナダーは結婚式から間もなく死去し、フマーラワイフも896年に殺害されたため、トゥールーン朝はフマーラワイフの不安定な未成年の息子たちの手に委ねられた。ムウタディドはこの状況を素早く利用し、897年にビザンツ帝国との国境地帯に位置するスグールの各アミール政権に対する支配権を拡大させた。マイケル・ボナーによれば、そこでムウタディドは「長らく中断されていた毎年恒例の夏季の遠征を指揮し、ビザンツ帝国に対する防衛体制を整えるという古いカリフの大権を担った」。さらに、新しいトゥールーン朝の統治者であるハールーン・ブン・フマーラワイフ(在位:896年 - 904年)は、自身の地位に対するカリフの承認を確保するためにさらなる譲歩を余儀なくされ、ホムスより北方のシリア全域をアッバース朝へ返還するとともに年間の貢納額が450,000ディナールに引き上げられた。その後の数年間で、残りのトゥールーン朝の領内における混乱の拡大とカルマト派の襲撃の激化によってトゥールーン朝に追従していた多くの人々が勢力を挽回したアッバース朝へ逃れるようになった。
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