トゥールーン朝との関係とは? わかりやすく解説

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トゥールーン朝との関係

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/09 06:20 UTC 版)

ムウタディド」の記事における「トゥールーン朝との関係」の解説

この方針は、新しカリフ自身の最も強力な臣下であるトゥールーン朝政権に対して示した融和的態度によってすぐに明らかとなった893年春にムウタディド年間300,000ディナール未納となっていた200,000ディナール貢納加えジャズィーラの州のうちディヤール・ラビーア(英語版)とディヤール・ムダル(英語版)をアッバース朝統治下に戻すことと引き換えフマーラワイフエジプトとシリア自立したアミールとして承認し、その立場再確認した。条約締結するためにフマーラワイフは娘のカトル・アン=ナダー(英語版)(「露の滴」を意味する)をカリフ息子一人花嫁として差し出したが、ムウタディドは自ら結婚することを選んだトゥールーン朝公女持参金として1,000,000ディナール持ち込んだ歴史家ティエリ・ビアンキによれば、これは「中世アラブ歴史の中で最も贅沢であると考えられ結婚祝いであったバグダードへのカトル・アン=ナダーの到着は、貧窮化していたカリフ宮廷とは全く対照的な公女従者豪華さと贅沢さが特徴をなしていた。ある言い伝えによれば徹底的な調査結果ムウタディド宦官長官宮殿を飾るための細かい装飾施され銀と金燭台5つしか見つけることができなかったが、一方で公女にはそれぞれ同様の燭台を持つ150人の召使い随行していた。するとムウタディドは、「さあ、我々が困窮しているところを見られないように立ち去って身を隠そう」と語ったといわれている。 しかしながら、カトル・アン=ナダーは結婚式から間もなく死去しフマーラワイフ896年殺害されたため、トゥールーン朝フマーラワイフ不安定な未成年息子たちの手委ねられた。ムウタディドはこの状況素早く利用し897年ビザンツ帝国との国境地帯位置するスグールの各アミール政権対す支配権拡大させた。マイケル・ボナーによれば、そこでムウタディドは「長らく中断されていた毎年恒例夏季遠征指揮しビザンツ帝国対す防衛体制を整えるという古いカリフ大権担った」。さらに、新しトゥールーン朝統治者であるハールーン・ブン・フマーラワイフ(在位896年 - 904年)は、自身地位対すカリフ承認確保するためにさらなる譲歩余儀なくされ、ホムスより北方シリア全域アッバース朝返還するとともに年間貢納額が450,000ディナール引き上げられた。その後数年間で、残りトゥールーン朝領内における混乱拡大カルマト派襲撃激化によってトゥールーン朝追従していた多く人々勢力挽回したアッバース朝逃れるようになった

※この「トゥールーン朝との関係」の解説は、「ムウタディド」の解説の一部です。
「トゥールーン朝との関係」を含む「ムウタディド」の記事については、「ムウタディド」の概要を参照ください。

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