トゥーレル砦攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 15:38 UTC 版)
「オルレアン包囲戦」の記事における「トゥーレル砦攻撃」の解説
オルレアン包囲戦は1428年10月12日に開始され、17日には砲撃が開始された。イングランドは21日にブールバールを攻撃したが、フランス軍の矢石攻撃、ロープ網による包囲、熱した油、熱した石炭、生石灰などにより退けられた。イングランド軍は前線攻撃を止め防塁を掘り始めたが、フランス軍はこれに対抗して坑道支柱に火を放ち、23日にトゥーレル砦に戻った。しかし翌24日にトゥーレル砦を嵐が襲い、離散したフランス軍は追撃を防ぐためにいくつかの橋のアーチを爆破した。 トゥーレル砦陥落により、オルレアンがイングランドに占領されるという運命が決まったかに見えた。しかし、多くの援軍を引き連れたジャン・ド・ブザックのタイムリーな到着により、イングランドが橋を修復して渡り、オルレアンを包囲することを未然に防いだ。イングランドは2日後の26日にソールズベリー伯がトゥーレル砦の軍事基地を監督している間に、大砲の砲火により跳ね上がった瓦礫で顔を打ち付け、後退を余儀なくされた。 イングランドの軍事作戦は重傷を負ったソールズベリー伯がモン=シュル=ロワールへ手当てのため運ばれている間中断していたが、約1週間後にソールズベリー伯は傷が原因で命を落とした。以後はサフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポール、第7代タルボット男爵ジョン・タルボット(後の初代シュルーズベリー伯爵)、トーマス・スケールズの3名による集団指導体制となった。
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