フマーラワイフ
フマーラワイフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 03:30 UTC 版)
アフマド・ブン・トゥールーンの死後、フマーラワイフ・ブン・アフマド・ブン・トゥールーン(英語版)が正統な後継者として支配権を握った。彼が直面した最初の試練はカリフ、アル=ムウタミド治世中の事実上のアッバース朝の支配者であったアル=ムワッファクが派遣したシリア侵攻軍の到来であった。フマーラワイフはまた、父の長年の盟友であったアフマド・ブン・ムハンマド・アル=ワシティー(Ahmad ibn Muhammad al-Wasiti)の離反と敵軍野営地への逃亡という事態にも対応しなければならなかった。 トゥールーン朝の若き支配者、フマーラワイフは政治的・軍事的に成功し、890年までにその権威をエジプトから北部イラクまで、さらに遠く北はタルソスまで及ぼすことに成功した。中東の政界の重要人物となった彼は、アッバース朝と2つの条約について交渉した。1つ目の条約は886年のもので、アル=ムワッファクがエジプトとシリアにおけるトゥールーン朝の支配を30年間認めるというものである。2つの目の条約は、892年にアル=ムウタティドに接触し、1つ目の条約の合意の内容を確認したものである。両方の条約はまた、トゥールーン朝の太守がバグダードに座すカリフ一族の臣下であることを確認することを希求していた。 その成功にもかかわらず、フマーラワイフの治世はまた王朝の終焉の舞台を整えた。財政の逼迫、政治紛争、そしてアッバース朝の動向の全てがトゥールーン朝の滅亡の原因となったであろう。フマーラワイフはまた中央アジア系やサハラ以南の兵士たちに完全に依存していた。彼の治世において、トゥールーン朝のの財政と軍事は不安定化した。
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