後継者とトゥールーン朝のその後
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「アフマド・ブン・トゥールーン」の記事における「後継者とトゥールーン朝のその後」の解説
イブン・トゥールーンの死後、フマーラワイフはトゥールーン朝の支配層の支持を得て反対されることなく後継者となった。また、イブン・トゥールーンは安定した経済、よく訓練された軍隊、そして経験豊富な軍の指揮官や官僚の集団を後継者に残した。フマーラワイフはタワーヒーンの戦いでの勝利によってアッバース朝が自分を屈服させようとする試みを退け、自身の支配権を維持するとともにさらなる領土の拡大に成功したが、行き過ぎた浪費によって国庫を使い果たし、896年にフマーラワイフが暗殺されたことでトゥールーン朝政権は急速な衰退を始めた。その後に続いた政権内の対立はトゥールーン朝の権力を弱体化させていった。大酒飲みであったフマーラワイフの息子のジャイシュ(英語版)は叔父のムダル・ブン・アフマド・ブン・トゥールーンを処刑した末に数か月で廃位され、兄弟のハールーン・ブン・フマーラワイフに取って代わられた。しかしハールーンも意志の弱い統治者であり、叔父のラビーア(英語版)がアレクサンドリアで起こした反乱は鎮圧に成功したものの、同じ頃に始まったカルマト派の襲撃に対しては抵抗することができなかった。さらには多くの軍司令官がアッバース朝へ亡命し、そのアッバース朝はムワッファクの息子であるカリフのムウタディド(在位:892年 - 902年)の優れた指導力の下で勢力を挽回することに成功した。そして904年12月にはイブン・トゥールーンの別の息子であるアディーとシャイバーンが甥のハールーンを殺害し、トゥールーン朝政府の実権を握った。この事件はシリアの重要な軍司令官たちとの不和を招くことになり、衰退に歯止めが掛からなくなった。そしてムハンマド・ブン・スライマーン・アル=カーティブ(英語版)に率いられたアッバース朝軍が比較的抵抗を受けることなく迅速にシリアとエジプトを征服し、905年1月にフスタートに入った。勝利したアッバース朝の軍隊はイブン・トゥールーン・モスクを除くアル=カターイを略奪し、徹底的に破壊した。
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