後継者と自らの最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/10 02:31 UTC 版)
「ギヤースッディーン・バルバン」の記事における「後継者と自らの最期」の解説
1285年にイルハン朝のアルグンはガズナからパンジャーブに軍を侵攻させた。この戦いで防衛軍の指揮下にあった長男のムハンマドが戦死し、バルバンは期待していた後継者を失って大きな心痛を受けた。 それから2年後の1287年、またもアルグンの軍がパンジャーブに侵入してラーホールを略奪した。このような中で80歳を越えていたバルバンは遂に病に倒れ、死の3日前に主だった臣下を呼び集めて後継者は長男のムハンマドの子であるカイホスローにするように遺言して死去した。 バラニーはバルバンの恐怖政治について「国政の問題に精通した男だった。彼はマリクからハーンとなり、ハーンから王までのぼりつめた。王位につくと、そこに新しい輝きを与え、諸官庁に秩序をもたらし、効力が衰えたり、なし崩しになったりしていた制度を元に戻した。かくして政権の権威は復活し、王の厳しい規則と断固たる決断によって、身分の高い者も低い者も、領内のあらゆる人々がバルバンの支配に従うようになった」と賞賛している。また、バルバンは公明正大で即位した後は禁じられた楽しみを耽溺することもなかったという。
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