フマーユーン、アクバルの重臣として
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「バイラム・ハーン」の記事における「フマーユーン、アクバルの重臣として」の解説
バイラム・ハーンはバーブルの後をついで皇帝となったフマーユーンのもとで、グジャラートやベンガル、ヴァーラーナシーなどの戦いで大きな功績を上げた。また、1540年にフマーユーンがスール朝のシェール・シャーにデリーを追われた際にも、彼に付き従いイランへと赴き、カンダハールの知事となった。 1555年7月にフマーユーンがデリーに戻るまで、バイラム・ハーンはその帰還までに多大な尽力を惜しまず、スール朝の軍勢と戦い、バイラム・ハーンはシルヒンドの戦いで功を上げた。6月にフマーユーンが皇子アクバルを後継者に決めた際、ムヌイム・ハーンをその後見人にしていたが、バイラム・ハーンがこの戦功で交代する形で後見人となり、ムヌイム・ハーンはカーブルにいた別の皇子ミールザー・ハキームの後見人となった。 同年1月にフマーユーンが死ぬと、バイラム・ハーンはその後を継いだ幼少の皇帝アクバルの摂政(執政)となった。だが、スール朝の残党であるヘームーが挙兵し、帝国軍との戦いに連勝して北インドの大半を制圧し、10月6日にデリーを占領した。 バイラム・ハーンはアクバルとともにこのときパンジャーブでスール朝の残党を討伐するため遠征していたが、ジャランダルでこのデリー占領を知った。帝国軍20,000人に対してヘームーの軍は100,000人を越し、帝国軍より圧倒的に優勢であることがわかり、戦うか戦わないかで議論になった。家臣の大多数は戦うのは明らかに無謀であり、アフガニスタンのカーブルに逃げたのちに戦力を確保することを進言したが、アクバルとバイラム・ハーンは戦うことを意見し、結局戦うことになった。バイラム・ハーンはまた、何の抵抗なくデリーを敵に明け渡したとして自身のライバルであったタールディー・ベグを処刑した。 11月5日、帝国軍とヘームーの軍はパーニーパットで激突したが、戦力の差は圧倒的で、帝国軍はヘームーの大軍に包囲され、敗北寸前に陥った。ヘームーが勝利したと思われたとき、象の上に乗って指揮をしていたヘームーが片目を矢で射られて意識を失い、彼の軍は混乱に陥った。 数時間後、ヘームーの軍は潰走し、バイラム・ハーンがヘームーを処刑したことで、第二次パーニーパットの戦いは終結した。帝国軍はヘームーの軍を大量虐殺したのち、同月7日にアクバルは帝都デリーに入城し、ムガル帝国の統治をはじめることとなった。
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