デリー占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/09 06:09 UTC 版)
1556年1月、フマーユーンは図書館の階段から落ちて頭を強打して死亡し、13歳の息子のアクバルが皇帝となった。 ムハンマド・アーディル・シャーはヘームーにムガル帝国の軍勢を駆逐する命令を出し、遠征に向かわせた。ヘームの軍勢はベンガルから進撃し、ビハールとインド中央部を制圧した。ムガル帝国軍は次々に打ち破られ、アーグラも制圧された。 同年10月6日、ヘームーはムガル帝国の首都デリーを攻撃し、3000人の犠牲を代償に、帝国軍をデリーから追い払い、その手中に収めた。そして、同月7日、ヘームーはデリーで王位を宣し、「ラージャ・ヴィクラマーディティヤ(単にヴィクラマーディティヤとも)」あるいは「ヴィクラムジート(ヴィクラマージート)」を称して、その名を刻んだ硬貨を鋳造した。「ヴィクラマーディティヤ」の称号は歴史的な称号であり、かつてはグプタ朝の君主チャンドラグプタ2世が称していた。ただし、歴史家サティーシュ・チャンドラは「ヴィクラムジート」の称号は主君ムハンマド・アーディル・シャーから授かったものだしとしている。 ヘームーは軍事的才能おいて非常に優れた指導者で、ヒンドゥー教徒であったにもかかわらず、アフガン人といったイスラーム教徒をはじめ、多くの人の支持を集められたのは、その非凡な才能のおかげであった。その生涯における戦いの勝利数は、知られているだけでも22に及んだ。
※この「デリー占領」の解説は、「ヘームー」の解説の一部です。
「デリー占領」を含む「ヘームー」の記事については、「ヘームー」の概要を参照ください。
- デリー占領のページへのリンク