デリー・スルターン朝との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/22 08:58 UTC 版)
「東ガンガ朝」の記事における「デリー・スルターン朝との戦い」の解説
11世紀末、ゴール朝のインド方面の司令官アイバクは、北インドを制圧し、その武将ムハンマド・バフティヤール・ハルジーがセーナ朝を蹂躙してベンガル地方を手にした。そして、1200年以降オリッサに侵入してきたが、ビーマ・デーヴァ2世の孫ラージャラージャ2世はこれを撃退した。 1216年から1235年かけて、息子ビーマ・デーヴァ3世も同様に、デリー・スルターン朝の奴隷王朝の軍を撃退している。 その息子ナラシンハ・デーヴァ1世の治世は反撃に出て、1243年に奴隷王朝の支配するベンガル地方に侵攻し、その守備軍の指揮官を討ち、ベンガルの首府ガウル(ラクナワティ)の門前にまで来た。だが、アワド地方から多数援軍が到着しつつあることをある知り、彼は帰還した。ナラシンハ・デーヴァ1世は奴隷王朝と4度以上戦い、最後の戦いでは敗れてしまい、オリッサの領土に侵攻された。この王はコナーラクの寺院を建設したことで知られている。 だが、その孫ナラシンハ・デーヴァ2世はナラシンハ・デーヴァ1世の治世に奪われたオリッサの領土を奪還した。それだけではなく、南西ベンガルから奴隷王朝の勢力を追い払い、ガンジス川にまで侵攻した。彼は1296年にガンジス川の土手から勅令を発している。 1323年、トゥグルク朝の軍司令官ウルグ・ハーンは、デカンのカーカティーヤ朝を滅ぼし、南インドのホイサラ朝を再服従させたあと、西からオリッサに侵攻した。だが、ナラシンハ・デーヴァ2世の息子バーヌ・デーヴァ2世に撃退された。 このように、東ガンガ朝の歴史はデリー・スルターン朝との絶え間ない戦いにあり、その独立を守るために戦い続けなければならなかった。
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