デリー入城とムガル帝国との協定
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「マハーダージー・シンディア」の記事における「デリー入城とムガル帝国との協定」の解説
さて、ムガル帝国の皇帝シャー・アーラム2世は1765年以降、イギリスがその後見人になり、皇帝シャー・アーラム2世は完全に年金生活者化し、アラーハーバードの居城で生活していた。 しかし、1768年にシャー・アーラム2世のためデリーの宮廷を守っていたナジーブ・ハーンが、健康上の衰えを理由にデリーから追放されてしまった。皇太后や家族から頻繁に来る手紙により、シャー・アーラム2世は憂慮が深まったが、イギリスの助力はあてにならなかった。 一方、1769年末以降、王国宰相マーダヴ・ラーオはデリーに向けて5万人の兵をもって遠征に来ると、マハーダージーも加わった。約一年間を通して行われたこの遠征で、北インド一帯のアフガン勢力に攻撃が行われ、その制圧に成功した。 そして、1771年2月10日、マハーダージーはその過程でデリーを占領し、事実上北インドの支配者となった。そのため、彼は皇帝シャー・アーラム2世に協定を持ちかけ、シャー・アーラム2世はこれを喜んで受け入れ、1772年1月にデリーへ帰還することとなった。 同年、マハーダージーは北インドのローヒルカンド地方へと進出し、アワド太守シュジャー・ウッダウラを圧迫するに至った。そのため、シュジャー・ウッダウラはブクサールの戦い以降、かねてから従属を強めていたイギリス東インド会社に援助を求めざるを得なかった。
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