ザンジュの乱とトゥールーン朝に対する軍事行動
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「ムウタディド」の記事における「ザンジュの乱とトゥールーン朝に対する軍事行動」の解説
将来のムウタディド(この時点では通常アブル=アッバースのクンヤで呼ばれている)はザンジュとの戦いの中で最初の軍事経験を積み、治世を特徴づける軍との緊密な関係を確立したと考えられている。ムワッファクはアブル=アッバースが幼い頃から息子に軍事教育を与え、若い王子は優秀な騎手になるとともに指揮官として強く期待されるようになり、部下たちとその馬の状態に個人的な気遣いを見せていた。 869年の反乱の勃発から10年以内にザンジュの反乱勢力はバスラとワースィトを含むイラク南部のほとんどの地域を占領し、フーゼスターンにまで勢力を拡大した。しかし、879年にサッファール朝の創始者であるヤアクーブ・アッ=サッファールが死去したことで、アッバース朝政府はザンジュの乱に対して十分に集中できるようになった。そして、879年12月に10,000人の部隊の司令官としてアブル=アッバースが任命された出来事は戦争に転機を告げることになった。その後のメソポタミア湿原(英語版)での水陸両面の作戦を伴う長く困難な戦いの中で、アブル=アッバースと自身のギルマーン(中でも長期にわたって仕えたズィラク・アッ=トゥルキーが最も著名であった)は重要な役割を果たした。アッバース朝の軍隊は最終的に増援部隊と志願兵、さらには反乱からの離脱者で膨れ上がったものの、軍の中核を形成し、その指導的な立場を占め、しばしばアブル=アッバース自らの指揮下で戦いの矢面に立っていたのは少数の精鋭のギルマーンであった。反乱勢力周辺の包囲網を何年にもわたって徐々に締め上げていった後、883年8月にアッバース朝軍が反乱軍の本拠地であるムフターラに激しい攻撃を加えて反乱を終結させた。以前の反乱参加者とアッバース朝軍の関係者から収集した情報を年代記に残したタバリー(923年没)は、多くの問題を抱えたイスラーム国家を防衛し、反乱を鎮圧した英雄としてのムワッファクとアブル=アッバースの役割を強調している。この成功裏に終わった軍事活動は、後のアブル=アッバースによるカリフの地位の事実上の簒奪を正当化する役割を果たした。 884年5月にアフマド・ブン・トゥールーンが死去した後、この状況を利用しようとしたアッバース朝の将軍のイスハーク・ブン・クンダージュ(英語版)とムハンマド・ブン・アビッ=サージュ(英語版)がシリアのトゥールーン朝の領土を攻撃した。885年の春にはアブル=アッバースが軍事侵攻の指揮を執るために派遣され、すぐにトゥールーン朝軍を打ち破ってパレスチナへ撤退させることに成功した。しかし、イスハークとムハンマドの両者と口論となり、両者は軍事作戦を放棄して自身の部隊を撤退させた。その後、4月6日に起こったタワーヒーンの戦いでアブル=アッバースはアフマド・ブン・トゥールーンの息子で後継者のフマーラワイフ(英語版)と対決した。当初はアブル=アッバースが勝利を収め、フマーラワイフを逃亡させたが、続く戦いでは逆に敗北して自軍の多くの者が捕虜となり、自身は戦場から逃れた。トゥールーン朝はこの勝利の後にジャズィーラ(メソポタミア北部)とビザンツ帝国(東ローマ帝国)との国境地帯(スグール(英語版))へ支配を拡大させた。886年に和平協定が結ばれ、その中でムワッファクは毎年の貢納と引き換えにフマーラワイフを30年間エジプトとシリアの世襲統治者として認めることを余儀なくされた。アブル=アッバースは続く数年にわたってファールスをサッファール朝の支配から取り戻す父親の試みに関与したものの、この試みは最終的に失敗に終わった。
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