ザンジュへのアラブ人の見方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/04 03:29 UTC 版)
「ザンジュ」の記事における「ザンジュへのアラブ人の見方」の解説
ザンジュに関するアラブ人の記述は一貫性に欠ける。中世のアラブ人作者のムカッダスィーen:Al-Muqaddasi著作のKitab al-Bad' wah-tarikh,(『原初と歴史の書』) vol.4に現れる次の説では、ネガティブな見方が強調されている。 "ザンジュについて言えば、彼らは黒い皮膚、平らな鼻、縮れた髪を持つ、理解力や知能に乏しい人々である。" "我々はザンジュ(黒人)が、最も知能と洞察力に欠ける人間であり、行動の結果を最も理解できないことを知っている。" -- ジャーヒズ (d. 868 AD), Kitab al-Bukhala(けちんぼどもの書) "ザンジュは人間の間のカラスのようである。というのも彼らはその性質と気質において 最悪の人間であり最も不道徳な被造物であるからだ。" ジャーヒズ, Kitab al-Hayawan(『動物の書』), vol. 2 しかし9世紀のムスリム作家のジャーヒズは、一説にはアフリカ系アラブ人(en:Afro-Arab)でザンジュ(バントゥー人)奴隷の孫であった。 "彼らは言う。「もしザンジュとザンジュの女が結婚し、その子どもが若者になってもイラクに残留すれば、 彼らの人数と忍耐力と知性と能率のお陰で、寝床を支配する。」" ジャーヒズは「Risalat mufakharat al-Sudan 'ala al-bidan」 ("黒人の白人の上の優越に関する報告")という本を書き、その中で黒人について述べている。 "(黒人は)メッカまでものアラブ人の国を征服し彼らを支配したことがある。我らは ズー・ヌワースen:Dhu Nuwas (イエメンのユダヤ教徒の王)を打ち負かし、ヒムヤルen:Himyar王国の王子たちを殺した。しかし汝ら白人 は我らの国を征服したことはない。 我が民ゼング(Zengh、黒人)はユーフラテスで4度反乱を起こし、その住人を家から追い出し、Oballahを血の海とした。" "黒人は身体的にどの人々よりも力強い。彼らの一人は、何人もの白人が持ち上げたり重い石を持ち上げ、運べないような荷物を運ぶことが出来る。彼らは、その高貴さと邪悪さのなさの証として、勇敢で強く寛大である。 " 1331年、アラビア語話者の ベルベル人探検家イブン・バットゥータが、ザンジュの地にあるキルワ・スルターン国 en:Kilwa Sultanateを訪問した。この国はスルターン・ハサン・ビン・スライマーン(en:Sultan al-Hasan ibn Sulaiman)のイエメン系王朝によって統治されていた。バットゥータは、その手紙でザンジュの住人を「漆黒の色で顔に刺青のある」と描写し、王国のアラブ系の支配者はザンジュを奴隷や戦利品によくしていると述べている。 "キルワは世界で最も美しくよく建造された町の一つである。 その全ては優雅に建てられている。屋根はマングローブの棒で作られている。そこは雨が多い。 異教のザンジュの隣に国があるため、人々は聖戦に従事している。 彼らの長の素質は、献身的で敬虔である。彼らはシャーフィイー学派に属している。私が到着した時、スルタンは アブー・アル=ムザッファル・ハサンであり、そのラカブ(尊称)は彼の慈善的な数々の贈り物の故にアブー・アル=マワーヒブ(贈り手の父、よく物を贈る人という意味)であった。彼は頻繁にザンジュの国(隣合う本国)へ奇襲を繰り返し、打撃を与え戦利品を運ぶ。そしてコーランの方法に則り、五分の一を留保する。"
※この「ザンジュへのアラブ人の見方」の解説は、「ザンジュ」の解説の一部です。
「ザンジュへのアラブ人の見方」を含む「ザンジュ」の記事については、「ザンジュ」の概要を参照ください。
- ザンジュへのアラブ人の見方のページへのリンク