ザンジュの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/04 03:29 UTC 版)
ザンジュはアラブ人やペルシャ人やインド人と広範囲にわたって交易を行った。しかし、いくつかの資料によれば、彼らは外洋船を持たなかったため、その交易は地域的なものであったという。また、別の資料によれば、かなりのバントゥー・スワヒリ人はすでに航海可能な帆船を持ち、船乗りや商人がアラビアやペルシアや、遠く東にはインドや中国と交易していたという 。この交易を通じて、アラブ人の幾人かは現地のバントゥー女性と通婚し、バントゥーを起源に持つが(服や借用語などの)外来要素の影響を受けた、スワヒリ文化及びスワヒリ語が生まれることとなった。 ザンジュ沿岸の有力な集落として、 en:Shungwaya (en:Bur Gao)やマリンディや en:Gediやモンバサがあった。中世後期に、この地域には少なくとも37のスワヒリの貿易都市が実在し、その多くはかなり裕福だった。しかしこれらのコミュニティは一つの政治的存在として統一されたことはなかった(「ザンジュ帝国」"en:Zanj Empire"は19世紀後半のフィクションである)。 これらのスワヒリ集落の都市支配階級と商人階級は、アラブ人とペルシャ人の移民で占められていた。バントゥー人は、沿岸地区に居住し、家族集団としてのみ組織化されていた。東アフリカ沿岸で使われ、スワヒリ語の"zanji"から発生した'en:shenzi'という用語は、田舎の黒人に関連することを指す悪口であった。この例として、土着の犬を意味する植民地用語の"shenzi"犬がある。 ザンジュは、インド洋を渡り何世紀もの間、奴隷としてアラブ商人によりさまざまな国へ輸出されていた。ウマイヤ朝とアッバース朝のカリフは、ザンジュ奴隷を兵士として採用し、早くも696年にはザンジュ奴隷のアラブ人の主人に対する反乱がイラクで起こった(ザンジュの乱参照)。古代中国の文献にも、ジャワからの使者が皇帝に二人の僧祇奴Seng Chi (Zanji)貢物として献上したとある。僧祇奴はスマトラ島に位置するヒンドゥー王国のシュリーヴィジャヤ王国から中国へ届けられた。 アフリカ東南海岸の海は「ザンジュの海」として知られ、マスカリン諸島やマダガスカル島を含んでいた。反アパルトヘイト闘争期間、南アフリカは古代のザンジュを反映した 'Azania'への改名が提案された。
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