経済的自治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 03:30 UTC 版)
870年から872年の間、アフマド・ブン・トゥールーンはエジプトの財務管理についてより大きな権限を主張した。871年、ハラージュ(人頭税)を管理下に置き、シリアのthughūrでも同様の処置を取った。彼はまた、財務長官でアッバース朝の官僚エリートの1人であったイブン・アル=ムダッビル(Ibn al-Mudabbir)に勝利した。 アッバース朝の事実上の君主であったアル=ムワッファクはアフマド・ブン・トゥールーンの財政支配に悩まされていた。アル=ムワッファクはザンジュの乱に対する戦費のためにエジプトからの収入を確保することを望んでいた(そして恐らくトゥールーン朝の財政的自治を制限した)。資金調達の必要が差し迫っていたことで、とても豊かなエジプトにバグダードの関心が向けられた。この状況によって、アル=ムワッファクが要求した資金を供出しなかったことを契機に、877年初頭、アフマド・ブン・トゥールーンを排除するための軍隊が派遣された。軍の派兵にもかかわらず、アフマド・ブン・トゥールーンは少なくとも2度、贈り物を添えて収益から相当の金額をアッバース朝の中央政府に送金した。アフマド・ブン・トゥールーンの息子、フマーラワイフの時代、アッバース朝は正式にトゥールーン朝と条約を締結した。この条約によって敵対関係は集結し、トゥールーン朝からアッバース朝への貢納の支払いが再開された。財務に関する条項は886年のアル=ムワッファクとの最初の条約で作られた。アル=ムワッファクの子、アル=ムウタディドとの第2の条約によって、最初の条約における政治的文言が再確認された。規定ではトゥールーン朝は毎年300,000ディナール(この数字は不正確かもしれないが)を支払うことになっていた。
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