最後の戦闘
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ポリュビウスによると初期の戦闘は小競り合い程度とされているが、リウィウスはもっと激しい戦闘があったと記している。ハンニバルの攻撃と同時に、カプア城内からボスタルとハンノに率いられた兵が出撃した。対するローマ軍は軍を以下のように分けて対抗した。 プルケルがカプア兵に対抗 フラックスがハンニバルの攻撃に対処 法務官ネロが6個軍団およびイタリア同盟都市の騎兵をまとめて、ガイウス・フルヴィウス・フラックス(執政官フラックスの弟)と共に、ヴォルトゥルヌス川の前面のスエッスラに向かう道路を防御 戦闘は兵士の雄叫びで開始され、市民も城壁の上で青銅の器物を打ち鳴らした。プルケルがカプア兵に対し、フラックスがハンニバルに相対した。第VI軍団の戦列に対し、イベリア兵は中央部を3頭の戦象で突破しようとしていたが、ローマ軍野営地に突入できるかは不確かであった。フラックスは第VI軍団の危機的状況を見て、ナヴィウスおよび何人かの百人隊長に対し救援を命令した。命令を受けたナヴィウスは軍団旗を手に第一戦列兵(ハスタティ)を率いて敵に向かった。ナヴィウスは長身で、彼の軍歴を示す可憐な甲冑を身に着けていた。イベリア兵の戦列に接近すると、彼の周りには投槍が降り注いだ。しかしかれは退却せず、そのまま前進した。 指揮官の1人であるマルクス・アティリウス・レグルスは第VI軍団の第三戦列兵(プリンキペス)を率いてイベリア兵に反撃した。野営地の防衛を担当していたルキウス・ポルシウス・リキニウスとティトゥス・ポプリウスは、ヴォルトゥルヌス川を渡河しようとする戦象部隊と戦っていた。戦象は濠をわたる途中で殺された。しかし、ここを乗り越えてカルタゴ兵は濠を渡った。カプアから出撃してきたカプア兵とカルタゴ兵はローマ軍を打ち破れず、城門の近くで戦い続けた。 カプアは多数の強力な投石機やスコルピオ(en)で防御されているために、ローマ軍はカプアの城門に近づくのは困難と判断した。また、司令官の1人であるプルケルも投槍が胸にささって負傷した。しかし、戦場には多くの敵兵が倒れており、残りの兵も城内に撤退した。ハンニバルはイベリア兵の敗退とローマ野営地の強固な防御力を見て、歩兵と騎兵に背後を守らせながら撤退することとした。ローマ軍はこれを追撃しようとしたが、混乱が生じた。混乱が拡大しないように、フラックスは整然とした撤収を選んだ。リウィウスによると、ハンニバル軍の損害は8,000、カプア軍の損害は3,000であり、カルタゴ軍から15本、カプア軍から18本の記章が奪われた。 しかし、他の古代の歴史家はこのような戦闘があったことを否定している。ヌミディア騎兵とイベリア兵が戦象を伴ってローマ軍野営地に突入し、これを破壊した。続いてハンニバルがこの恐慌を拡大するために、自軍のイタリア半島出身者をローマ軍野営地に潜入させ、ラテン語で撤退命令が出たとの嘘を流した。この欺瞞は見抜かれ、ローマ軍はカルタゴ軍に反撃し、戦象は火を使って撃退された。 どちらの説が正しいにせよ、これがカプア降伏前の最後の戦闘であった。
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最後の戦闘
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「伊号第百六十八潜水艦」の記事における「最後の戦闘」の解説
1943年7月27日17時54分、伊168はニューアイルランド島とニューハノーバー島の間にあるステフェン海峡(英語版)で浮上航行中に米潜水艦スキャンプに発見される。18時03分、伊168も潜望鏡を上げているスキャンプを発見し、これに対し魚雷を発射。スキャンプは即座に潜航を開始し、150フィートの深さに潜ったスキャンプの船尾を伊168が放った魚雷がかすめていった。18時12分スキャンプは、再度浮上して潜望鏡で伊168を捉えた後、魚雷4本を発射。うち1発が命中した。 18時14分、スキャンプが潜望鏡を上げて確認したが、海上に伊168の姿はなく、大きな150フィートの高さにまで立ち登る茶色い煙と油膜が残されていた。直後にスキャンプは5つの爆発音を観測し、そのうち2つは地球の中心から響くかのような轟音であった。伊168は非常に稀有な潜水艦同士の戦いで最期を迎えたが、浮上中であった伊168にとっては不利な条件下の戦闘であった。艦長の中島栄少佐以下乗員97名全員が戦死した。 撃沈総数2隻、撃沈トン数21,445トン。
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最後の戦闘
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「コルモラン (仮装巡洋艦・2代)」の記事における「最後の戦闘」の解説
オランダ商船「Straat Malakka」を装った「コルモラン」は、1941年11月29日、西オーストラリア・シャーク湾沖約170浬の海域でオーストラリア海軍のパース級軽巡洋艦「シドニー」と遭遇した。「シドニー」からは発光信号で船名を確認する旨の信号が送られたが、「コルモラン」は信号が判らないふりをして時間稼ぎをした。その後もオランダ商船を装いながら旗りゅう信号などで停船命令に従いつつ脱出の機会を窺い、距離が1,300mまで縮まった後、「コルモラン」はオランダ商船旗を降ろしドイツ軍艦旗を掲げて近距離砲戦に移行した。 至近距離での発砲となったことから、「コルモラン」の射弾は初弾から「シドニー」に命中し、艦橋や射撃指揮装置を破壊した。これにより「シドニー」は有効な対処ができなくなり、更に「コルモラン」が発射した魚雷が1番主砲塔直下に命中して前部主砲群が使用不能となった。「シドニー」は後部3・4番主砲で応戦を続けたが、その後も着弾が相次いで火災を起こし、次第に「コルモラン」から離れていった。 「コルモラン」も「シドニー」の射弾を各所に受け、機関部への被弾により燃料タンクから出火した。また、機関部を損傷したため、消火ポンプの動力が絶たれて消火活動ができなくなり、火災が全船に拡大して機雷への誘爆の危険が高まったことから、艦長は艦の放棄を決意した。幸い、艦載艇は無事だったので、生存乗員は脱出することができた。この海戦(en:Battle between HMAS Sydney and German auxiliary cruiser Kormoran)で「コルモラン」の乗員約82名(士官5名、水兵52名、中国人の洗濯屋1名)が死傷し、残りの317名(そのうち3名は中国人の洗濯屋)はオーストラリアの捕虜となった。「シドニー」もこの戦闘で沈没し、生存者はなかった。
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最後の戦闘
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最期の戦闘となる1942年9月13日、ガダルカナル飛行場に強行偵察する二式陸上偵察機2機の護衛を行う。羽藤は、稲野菊一大尉指揮の台南空零戦9機の第三小隊三番機として参加。 前日の夜、ガダルカナル島では、川口支隊による飛行場総攻撃、占領が予定されており、現地上空から正確な戦況を確認し、占領されていれば、そのままガダルカナル飛行場に着陸、進出するという特殊任務を負った出撃となった。9月13日午前4時30分にラバウル基地を離陸、午前8時にガダルカナル飛行場上空8千メートルを侵入し、滑走路を高空から偵察。しかし、実はその時点で川口支隊はジャングルに進攻を阻まれ、攻撃位置にすら達しておらず、総攻撃は13日夜に延期となっていた。そうした状況を知らぬまま時、すでに空中退避していたグラマンF4F戦闘機28機と交戦状態へ。40分以上をかけて、空戦空域が高高度8,000メートルから、この日の雲層の1,500メートル、そこから更に地面すれすれの超低空に下がっていく程の大乱戦に。第三小隊(大木一飛曹、太田一飛曹、羽藤三飛曹)三番機、編隊最後尾の羽藤は、高度200メートルの超低空の劣位から米海軍VF-5航空隊スモーキー・ストーバー中尉機めがけて反撃も、圧倒的な数の差でF4F戦闘機に取り囲まれたことでストーバー中尉機の前方に突っ込んでしまう。次の刹那、羽藤はストーバー中尉より後方から射撃を受けて、飛行場の15キロ西の丘陵に激突して炎上(乙飛9期同期で、この日、第一小隊三番機の茂木三飛曹がこれを目撃)。更に第二小隊の全3機(高塚寅一飛曹長、松木進二飛曹、佐藤昇三飛曹)も乱戦深追いのなかで撃墜される。米側はグラマンF4F戦闘機2機が撃墜され、2機が大破(大破2機のうち1機は、大木一飛曹、太田一飛曹の猛攻を受けたストーバー中尉機)。 享年20。羽藤の墓は今治市の大谷墓地の軍人墓地地区にある。公認撃墜数は19機。
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最後の戦闘
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「エムデン (軽巡洋艦・初代)」の記事における「最後の戦闘」の解説
次の作戦としてミューラーはココス諸島のディレクション島にある無線施設と海底ケーブルの破壊を決めた。エクスフォードにはソコトラ島付近での、ブレスクにはココス諸島の北出の待機を命じ、エムデンは11月9日にココス諸島のポートリフュージに停泊。ヘルムート・フォン・ミュッケ大尉以下50名からなる陸戦隊が上陸し、無線施設の破壊およびケーブルの切断を行った。ケーブルは3本中2本を切断したが、もう1本は発見できなかった。 エムデンにとって不幸なことに、陸戦隊の上陸直前に、ディレクション島の無線基地は、不審な艦影の発見により、緊急電報を発信していた。このとき偶然、オーストラリアの軽巡洋艦「シドニー(排水量5,400トン、15.2cm砲8門)」や「メルボルン」、日本の巡洋戦艦「伊吹」などが船団を護衛し、島から80km、時間にして2時間の地点を航行中であった。6時55分、シドニーがディレクション島へ急行を開始した。 シドニーの接近を見たミューラー艦長は、汽笛により陸戦隊の帰還を呼びかけるも間に合わず、抜錨し、戦闘準備を行う。9時40分にエムデンは砲撃を開始し、シドニーも反撃を行った。シドニーはエムデンより大型・優速であり、主砲の口径も10.5cm砲のエムデンよりも15.2cm砲は射程が長く優越していた。また、シドニーは水線部と甲板に防御を持つのに対しエムデンの装甲は30mmと薄い上に甲板部しか防御されない上に、長期の航海により各所に状態の思わしくない箇所を抱えていた。砲撃戦は1時間半ほど続き、シドニーの砲撃によりエムデンは主砲、射撃指揮所などに大きな損害を受けた。ミューラー艦長は損傷したエムデンの沈没を避けるため、11時15分、北キーリング島に故意に座礁させた。シドニーは、付近にいた補給船ブレスクを捕捉するために一時エムデンから離れたが、ブレスクが自沈した為に、16時にエムデンの側に戻った。シドニーは、エムデンにまだ戦闘旗が掲揚されているのを発見すると、砲撃を再開する。エムデンは急いで戦闘旗を降ろし、白旗を掲げ降伏した。翌10日に艦長を初めとするエムデンの乗員は収容され捕虜となった。エムデンの乗員は武装を解かれたが、エムデンの勇猛さに敬意を表してミューラー艦長以下の士官たちは帯剣を認められたという。 海戦後に撮られた「エムデン」の操舵室。 海戦後に撮られた「エムデン」のマストおよび上甲板。 海戦後に後部見張り所から撮られた「エムデン」。
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最後の戦闘
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1945年(昭和20年)8月1日九州に向けて北上中のB-24爆撃機編隊迎撃のため、隊長・菅野以下紫電改20数機は大村基地を出撃した。屋久島近くに達すると島の西方にB-24の一団を発見し敵上方より急降下に入った。菅野はこの日、愛機の「343-A-15」号機ではなく「343-A-01」号機での出撃であった。 この戦闘で菅野から戦闘第301飛行隊所属で彼の二番機・堀光雄飛曹長の無線に「ワレ、機銃筒内爆発ス。ワレ、菅野一番」と入電が入った。これを聞いた堀が翼を傾け右下方を覗くと、自機のはるか下方を水平に飛ぶ菅野機を発見し即座に近づいたところ、左翼日の丸の右脇に大きな破孔を発見した。堀はすぐさま戦闘を中止、二番機としての任務に則り菅野機の護衛に回ったが、菅野は敵の攻撃に向かうように再三指示した。堀がそれでも護衛から離れないので菅野は拳を突き付けて見せ、堀はやむなく戦闘空域に戻った。堀はその瞬間にそれまで怒りの形相であった菅野の表情が和らいだのを見たという。菅野から「空戦ヤメアツマレ」と入電があったため、堀は菅野がいると思われる空域へ向かうが、菅野機は空のどこにも見つからなかった。燃料の続く限りの捜索、海軍基地、陸軍飛行場にも菅野の行方を探ったが見つかることはなかった。この日の戦闘で菅野機を含む3機が未帰還となった。 なお、同日のアメリカ軍の戦闘記録によると当のB-24の一団は敵機撃墜0と報告。しかし近隣空域にてP-51の一団が「四式戦「疾風」と空戦し4機撃墜」の報告をしている一方で、陸軍には同空域での「疾風」戦闘記録がないため、機体と戦果の誤認からこれは343空のこの戦闘とも考えられる。志賀淑雄の8月10日付見認証書には菅野の戦死を「1015 高度6千メートル優位より6機のP51の奇襲を受け壮烈なる戦死を遂げたり」と記載されている。しかし、最後に菅野を見た堀光雄はP-51を見ていない。菅野は被撃墜なのか自爆なのかなどは、戦後も不明のままである。 菅野は行方不明のまま終戦を迎えたが、9月20日、源田司令は菅野を空戦での戦死として二階級特進を具申し、8月1日の戦死と正式に認定され中佐に昇進した。総撃墜数は、南方戦線において個人撃墜破30機、343空において個人撃墜18機・協同撃墜24機を記録、計72機撃墜を全軍布告された。戒名は「隆忠院功誉義剛大居士」。 遺品として存命中に愛用していた財布が靖国神社の遊就館に展示されている。菅野の遺言で残したものはほぼ焼却されたが中学3年3学期から海兵合格まで(1937年1月1日-1938年11月9日)の日記が残っている。1938年(昭和13年)9月14日「ナポレオンが僕の興味を沸き立たせないのは、彼はもののあわれを知らない唯物論者であるからだ」など早熟な感性からの視点がうかがえる。 中学時代の友人は、戦後、菅野の活躍を聞くと彼らしいと思う反面、その通りだがもっと別の、早熟な文学少年としての本来の志は文学にあったように思う、中学時代に彼が熱く語った石川啄木に重なると語る。また、軍で再会した菅野は酒に強く態度が荒く、中学時代とのギャップに驚いたという者もいる。中学の級友への手紙には「君のように大学で研究に没頭できる生活が羨ましい、戦争が終わったら俺もそういう静かな生活を送りたい」と書いている。
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最後の戦闘
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「スィゲトヴァール包囲戦」の記事における「最後の戦闘」の解説
スレイマン1世が死去した翌日の9月7日が包囲戦の最後の一日となった。この時すでに、要塞の城壁は砲撃や坑道からの爆破などによりほとんど体を成していなかった。朝に総攻撃が始まり、膨大な数のギリシアの火や砲弾が撃ち込まれた。ロバート・ウィリアム・フレイザーによれば、包囲戦で要塞に打ち込まれた砲弾は1万発を越えた。スィゲトヴァールの防衛上の最後の中枢だった城郭は焼け落ち、伯の住居にも灰が降りかかった。 オスマン軍が軍楽や雄叫びとともに街に迫る中、ズリンスキは最後の演説をした。 「 ...この燃え上がる地から出て、敵に立ち向かおう。ここで死んだ者は神の御許へ行くだろう。死ななかったものは、その名を讃えられるだろう。まず私が先に行くから、お前たちも同じようにせよ。神に誓って、私はお前たちを置いていきはしないぞ、我が兄弟、騎士たちよ!... 」 ズリンスキらは最後の攻撃に至っても城内への敵の侵入を許さなかった。オスマン兵が城門の前の細い橋に殺到したとき、防衛側は突然門を開いて大砲から鉄の塊を水平射撃し、たちまち600人の敵を殺害した。そしてズリンスキは600人の残存兵に突撃を命じた。先頭に立っていた彼は胸に2発のマスケット銃弾を受け、頭部に矢を受けて戦死した。一部の生き残った兵たちは城内に撤退した。 まもなくオスマン兵が城内に乱入し、生存者のほとんどを殺害した。ごく一部には、彼らの勇敢さを讃えたイェニチェリによって命を助けられた者もいた。彼らの手引きにより、わずか7人の騎士がオスマン軍の戦列を潜り抜けて逃げ延びた。ズリンスキの遺体は首をはねられ、その首はメフメト・パシャによりブディン太守ソクルル・ムスタファのもとへ、もしくは新スルタンセリム2世のもとへ送られたと考えられているが、最終的には1566年9月に、息子ジュラジ4世ズリンスキ(英語版)と、ボルディジャール・バッディアーニ、フェレンツ・タヒ(英語版)により、現在のクロアチアのシェンコヴェツ(英語版)市スヴェタ・イェレナ(英語版)にあるパウリネ修道院に埋葬された。一方遺体の体は、包囲戦中に捕虜となりつつもズリンスキによく扱われたオスマン軍兵により、名誉を保って葬られた。
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最後の戦闘
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「欧州戦線における終戦 (第二次世界大戦)」の記事における「最後の戦闘」の解説
5月14日、スロベニアのポリャーナ(en:Poljana, Prevalje)付近でユーゴスラビアのパルチザンとドイツ国防軍・クロアチア独立国軍・スロベニア郷土防衛軍(英語版)・モンテネグロ人民軍(英語版)の間で戦闘が起こった(ポリャーナの戦い(英語版))。5月15日にドイツ軍らは降伏し、戦闘は終結した。 5月20日、オランダのテッセル島にカナダ軍が到着、ドイツ軍の武装解除にあたる。この島では4月5日にドイツ軍に所属していたグルジア人兵士が反乱を起こしていたが、ドイツ降伏後もグルジア人とドイツ軍との戦闘が続いていた(テッセルのグルジア人捕虜蜂起参照)。テッセル島はしばしば「ヨーロッパの最後の戦場」と呼ばれている。 ノルウェーのスヴァールバル諸島北東島には、1944年9月からドイツ海軍所属の気象観測隊が駐留していた(ハウデーゲン作戦)。本国からの指示もなく、また周囲に連合国軍部隊が展開していなかったこともあり、ハウデーゲン観測隊は敗戦後の1945年9月4日まで任務を継続していた。降伏した相手はアザラシ狩りの漁船であり、この際に戦闘は起きていない。
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「アメト=ハン・スルタン」の記事における「最後の戦闘」の解説
暴力的な国外追放を目の当たりにした後、アメト=ハンは連隊に戻り、引き続き卓越した戦いぶりを見せ続けた。大戦後期、ケーニヒスベルク、東プロイセンベルリン攻略戦ではラヴォーチキンLa-7を乗機とする。ケーニヒスベルクでは、ノルマンディ・ニーメンのパイロットと共闘。また、僚機ボリス・マスレニコフが新人のチュブコフ、フヴォストフらとともに6機編隊でドイツ軍戦闘機6機編隊と交戦中、うち4機がフヴォストフを襲い、更にチュブコフを囲んだが、アメト=ハンが攻撃に割って入りチュブコフの命を救った。1945年4月29日、ベルリン・テンペルホーフ空港の近くでフォッケウルフFw 190を撃墜、彼の30回目の単独撃墜にして最後の戦果となった。1945年6月29日に2回目のソ連邦英雄称号を受ける。合計30機を単独撃墜し、19機を共同撃墜、603ソーティー出撃し、150の空中戦に参加した。
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「アポマトックス・コートハウスの戦い」の記事における「最後の戦闘」の解説
4月9日の夜明け、南軍ジョン・B・ゴードン少将の第2軍団はシェリダンの騎兵隊を攻撃し、素早く最初の前線から後退させた。南軍のフィッツヒュー・リー少将の騎兵隊が北軍の側面に回りこんだ。次の前線はラナルド・S・マッケンジーとジョージ・クルック各准将が守っていたが、これも後退した。ゴードン軍団は北軍前線に突撃して尾根を占領したが、その頂部に達した時、北軍第24軍団全軍が第5軍団を右手にして戦闘隊形にあることを見出した。フィッツヒュー・リーの騎兵隊はこれら北軍を見て即座に後退し、リンチバーグ方面に去った。オード軍団がゴードン軍団に向けて前進を開始し、一方北軍の第2軍団が北東にいた南軍ジェイムズ・ロングストリートの軍団に向けてこれも前進を始めた。リーの参謀チャールズ・ベナブル大佐がこの時ゴードンのところに馬で乗りつけ、評価を求めたとき、ゴードンはリーが聞きたくないと分かっていることを答えた。「リー将軍には、私がこの軍団をボロボロになるまで戦わせたこと、今ロングストリートの軍団から十分な支援が得られなければ何もできないと思うと伝えてくれ。」リーはこの答えを聞いて遂に避け難いことを告げた。「それでは私ができることはグラント将軍に会いに行くこと以外残っていない、私は千の死も死のう。」 リーの士官たちの多くはロングストリートを含めて、軍隊が降伏することが残された唯一の選択肢であることに合意した。只一人降伏に反対した高貴な士官はロングストリートの砲兵長エドワード・ポーター・アレクサンダー准将であり、もしリーが降伏すれば「他の南軍も同じ道を辿る」と予言した。午前8時、リーは馬でグラントとの会見に向かい、3人の副官が同行した。ゴードンの前線と、ロングストリート軍団にいまだ前進している北軍散兵の辺りでは銃声が聞こえており、リーはグラントから伝言を受け取った。グラントとリーの間で数時間文書のやり取りがあり、休戦が実現し、グラントはリーの降伏条件を議論したいという要請を受けた。リーの副官チャールズ・マーシャル大佐がグラントとリーの会見場所を探しに行った。マーシャルはウィルマー・マクリーンの家を選択したが、マクリーンは偶然にもこの南北戦争での最初の大会戦である第一次ブルランの戦いのときに南軍P・G・T・ボーリガード将軍が借りた家の持ち主と同じ者だった。
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