再編成と最後の戦闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 14:37 UTC 版)
「聖パトリック大隊」の記事における「再編成と最後の戦闘」の解説
一連の交戦における彼らの砲兵としての優れた実績にもかかわらず、人数が激減したサン・パトリシオスは、1847年中頃に、サンタ・アナの個人的な命令によって、より大きな歩兵大隊を集めるよう命令され、多くの他のヨーロッパ人志願兵を含む「Foreign Legion of Patricios」(パトリシオス外国人部隊)と改名された。フランシスコ・R・モレノ大佐が全体を統括し、第1中隊をライリーが、第2中隊をサンティアゴ・オラーリーが指揮した。 1847年8月20日のチュルブスコの戦いにおいて、ロス・ブラボス大隊と共にサン・パトリシオスの両中隊はチュルブスコ修道院の胸壁を占領した。数では絶望的に劣っていたが、防衛兵は銃弾が切れるまで攻撃するアメリカ軍を多大な損失を受けながら押し返し、メキシコ軍士官は降参の白旗を揚げた。サン・パトリシオスのパトリック・ダルトン隊長は白旗を引き下ろし、兵士に必要なら素手でも戦わせるようペドロ・アナヤ(w:Pedro María de Anaya)将軍を促した。アメリカ軍一兵卒のバランタインは、メキシコ軍がさらに2度白旗を掲げようと試みた時に、サン・パトリシオスの隊員が銃撃し彼らを殺したと報告した。アナヤ将軍は彼の戦記の中で、35名のサン・パトリシオスが殺され、85名(負傷したジョン・ライリーを含む)が捕虜になり、85名以上が撤退するメキシコ軍とともに逃げたと記している。彼らは2週間ちょっと後のメキシコシティの戦いの前に一時的に再結成されたが、かつての数には決して回復せず、1850年に正式にメキシコ軍の任務から解雇された。
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