最後の戦いと所領没収
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 06:03 UTC 版)
天正18年(1590年)1月29日、先祖伝来の故地・小田城奪回に執念を燃やす氏治は、兵を率いて小田城外の樋ノ口に陣した。これに対し佐竹方は城から梶原景国・資胤兄弟らが出て迎え撃った(樋ノ口の戦い)。小田方は優勢に戦いを進め小田城に迫り、城塁を乗り越えようとしたため佐竹勢は大混乱となり、この時氏治は勝機を見た。しかし急報を受けた梶原兄弟の父・大田資正は片野城から急ぎ駆けつけたため、戦いは激しさを増し小田勢の損害も大きくなった。それでも小田勢は優勢で敵の首級を多くあげ、佐竹勢は城内へ逃げ込んだものの、小田城奪回はならなかった。氏治はそのまま手子生城へ帰還している。 氏治は相模の北条氏政に救援を求めたが、豊臣秀吉の攻撃に晒された北条氏にその余裕はなかった。2月には徳川家康が小田原征伐の先鋒として進軍していた。さらに不幸なことに、この小田原征伐に際し、「小田原攻めの秀吉軍に参陣せず、豊臣方の佐竹氏に反旗を翻し、小田城奪還の兵を起こした」ことを理由に所領を全て没収され、大名としての小田氏はここに滅亡した。秀吉の直臣となることを願うが、叶わなかった。天正19年(1591年)8月10日、氏治は奥州巡察に向かった秀吉を追って会津へ行き、浅野長政を通じてその罪を謝した。秀吉はこれを許し、結城秀康(徳川家康の次男で豊臣秀吉の養子、後に結城晴朝の養子。氏治の娘は秀康の側室)の客分として300石を与えられた。
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