最後の延恩侯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 08:40 UTC 版)
清朝の崩壊につながった辛亥革命の間、漢民族を皇帝にすることを主張する者もいた。その候補として、孔子の子孫の衍聖公とならんで、明の皇帝の子孫である延恩侯も挙げられていた。 最後の延恩侯は朱煜勲である。1912年に清朝は崩壊し、中華民国となっていたが、清の最後の皇帝である溥儀は遜清皇室小朝廷として紫禁城で清朝皇室を維持することを許されており、朱煜勲は紫禁城の側を離れなかった。1924年9月、朱煜勲は溥儀のイギリス人家庭教師、レジナルド・ジョンストンと会った。ジョンストンは著書『紫禁城の黄昏』の中で朱煜勲のことを「未だに真の中国紳士だ」と評している。朱煜勲がジョンストンに渡した名刺には、彼が明の末裔の延恩侯であり、東直門(英語版)の近くの羊管胡同に住んでいる(明裔延恩侯朱煜勲炳南東直門北小街羊管胡同)と書かれていた。1924年10月の北京政変で紫禁城から退去した後、朱煜勲は天津の日本租界でジョンストンを訪問した。その後、朱煜勲は溥儀を追って東北部へ行った。 1929年、朱煜勲は中華民国の中央政府に援助を請願し、困窮のため自分の職務を遂行することができないと述べた。政府は彼の延恩侯の称号を廃止し、代わりに俸給を支払った。1933年に、政府は明皇帝の陵墓で祖先祭祀を行う義務を完全に終了した。その後の朱煜勲のことは何も知られていない。
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