日本租界
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/18 16:48 UTC 版)
詳細は「日本租界(中国語版)」を参照 漢口の地政学的重要性を認識した日本政府は、1866年に領事館を開設したが、企業の海外進出が本格化する前であったため、漢口に進出する日本企業は皆無であった。そのため、領事館はいったん閉鎖された。その後、日清戦争(1894-1895年)の講和条約である下関条約が結ばれ、天津、上海などと共に漢口に租界を設ける権益が日本に与えられた。1898年、清国と日本の間に「漢口日本居留地取極書」が締結され、日本租界が中心街から最も遠いドイツ租界の北側の沼地に設けられることとなった。列強が既に租界を設けて権益を確保していた漢口で、日本が得ることが出来たのは漢口城壁外の低地しかなかったため、日本租界は毎年のように浸水害に遭った。1931年の長江大水害では壊滅的被害を受けた。 租界経営には定期航路の開設と維持が重要であるが、租界開設当初は日系企業の進出が少なく物流需要も低調であったため、大阪商船が行った上海・漢口路線は日本政府の補助金なしには維持できなかったとされる。日本租界の商工業の発展がその他の租界地区に比べて遅れており、欧米系の企業進出に圧倒されている状況だという記述が、1904年4月の漢口日本総領事館の報告のなかでも確認することが出来る。日露戦争(1904年-1905年)の時期より日本人の漢口への進出が活発となり、1901年に74人であった日本人居留者は、1905年に528人となり租界を置いている各国の中で最大の人口を擁するに至った。翌年の1906年には更に居留者数が増え1062人となっていた。外交官水野幸吉は日露戦争を前後した時期の日本商人の非常なる増加を指摘し、日信洋行、東興洋行(綿花・雑穀の輸出と綿糸の輸入業)のほか13社の名前を挙げている。日本の長江航路への進出も活発になり、1906年には神戸と漢口を直接結ぶ航路が日本郵船により開設されている。 1907年には「拡張居留地取極書」を締結し租界を長江下流に向かって拡張し、日本租界は現在の六合路を南端、芦溝橋路を北端、西端を中山大道(京漢鉄路跡)、東端を長江で囲まれた地区となった。日本租界の拡大に伴い、在漢口日本領事館は総領事館に昇格し、天津、上海に並ぶ位置に格上げされた。 辛亥革命(1911年-1912年)の幕開けとなる1911年10月10日に勃発した武昌起義(武昌蜂起)では、清朝と革命軍の交戦が日本租界付近で行われたため、多くの居留民が上海などに避難した。居留民数は1910年に1229人だったものが、1912年に973人まで落ち込んだが、その後第一次世界大戦に伴う好景気の影響で1917年には2045人まで再び増加している。 辛亥革命後の軍閥割拠状態になった中華民国で、蒋介石が指揮する北伐軍が1926年に武漢を占領し国共合作の武漢国民政府を開いた。日本は租界という特殊な法的領域を持っていたため、北伐開始当初は対外中立を標榜していた。しかし、革命軍と北京政府の衝突が激しくなったため、長江に停泊していた軍艦堅田やそこから上陸した海軍陸戦隊で租界防衛を行うことになる。民族意識の高まっていた中国人と日本軍水兵の衝突事件がしばしば起こる中で、1927年には国民革命軍と暴徒が日本租界に乱入し略奪、破壊を行った漢口事件も起こった。中国人の民族意識の高揚により、日本と中国が互いに国際法の秩序を守っていくためには、日本租界の返還という決断が必要であったが、それを実現することは非常に難しかった。 1931年には長江大水害で壊滅的被害を受け、電気や水道の断絶だけでなく租界の都市機能もほぼ麻痺した。この水害の直後には満州事変(1931年-1932年)と上海事変(1932年)が起こり、租界経営は非常に困難になり居留民も徐々に減っていった。1937年日中戦争が勃発する。1937年8月に居留民1787人のうち2人を残して引き揚げを完了し中国政府が代理管理することとなる。翌年1938年8月に日本租界は中国に回収された。しかし、1938年10月に日本軍が武漢を完全に占領したため租界の再開が宣言された。 1943年3月、日本軍の撤退に伴い日本租界は中国の汪兆銘政権に回収された。
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