日本移民援護協会の傘下へ入る
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「サンフランシスコ・シャビエル肺結核療養所」の記事における「日本移民援護協会の傘下へ入る」の解説
1964年、親日家であったセバスティアン・ゴメス・レイトン支配人が療養所を日系社会へ返還するよう提言した。利用者の大半が日系人である療養所を日系人の手へ返すことによって、日系社会からの支援を受けられることが期待された。1965年4月2日、療養所の経営母体であるサンタクルス慈善協会のルイス・メレガ理事長より日本移民援護協会へ療養所の無償貸与が提案され、4月6日に援護協会側はこの提案を受け入れた。この時、経営を引き継ぐにあたり、打ち立てられた方針が2つ: 日系社会の各団体に呼びかけ、90床のベッドを数床ずつ受け持ってもらい、経費を捻出する 細江静男医師の貧困結核患者救済会を経営主体とし、これを積極的に援助する 1965年9月1日、20ヵ年無償貸借契約によって療養所の運営が日本移民援護協会へ引き渡された。新体制下で先ず行われたのが施設の設備改善であった。第二次世界大戦勃発により中止されていた施設の改修が行われ、旧式のレントゲン撮影機の交換と下水設備の修理も行われた。病床維持のために取られた方針も功を奏した。毎月1床分の病床維持費を寄付した者や団体には寄付者自身か身内の者が入院する場合、病床を利用する権利が与えられた。この方法で1965年度には64床分の維持費が賄われた。これは療養所の基盤が固まるまで10年以上にわたって続けられ、大きな成果を上げた。 こうした改善により、1965年8月に44名だった入院患者、7ヵ月後には71名に増えた。また、療養所が日本人の手に返還されたという心理効果によって多くの協力がもたらされた。日系の野菜卸業者によって15年にわたる毎週無償の野菜の寄贈、日系青年による施設周辺の植樹、芸能関係者と宗教団体や日系団体による慰問活動等が行われるようになった。 このような成果が評価され、1974年9月12日に行なわれたサンタクルス慈善協会の臨時総会で療養所を日本移民援護協会へ無償譲渡されることが可決された。翌75年5月、サンフランシスコ・シャビエル肺結核療養所の施設を含む敷地4万8000平米が日本移民援護協会へ譲渡された。
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