慰問活動
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淡谷は戦時下で多くの慰問活動を行い、「もんぺなんかはいて歌っても誰も喜ばない」「化粧やドレスは贅沢ではなく歌手にとっての戦闘服」という信念の元、その後の第二次世界大戦中には、禁止されていたパーマをかけ、ドレスに身を包み、死地に赴く兵士たちの心を慰めながら歌い送っていた。 「英米人の捕虜がいる場面では日本兵に背をむけ、彼等に向かい敢えて英語で歌唱する」、「恋愛物を多く取り上げる」といった行為の結果、書かされた始末書は数センチもの厚さに達したとのことである。
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慰問活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/17 03:36 UTC 版)
アメリカが第二次世界大戦に参戦すると、マーサは米国慰問協会に加わって慰問活動を開始する。以降、朝鮮戦争やベトナム戦争においても引き続いて慰問活動を行い、飛行機恐怖症の気があったにもかかわらずアメリカ軍の慰問のためにツアーを続けた。 ベトナム戦争初期の1966年10月、マーサは南ベトナムのソクチャンに駐留する、「ソクチャン・タイガース」あるいは「ヴァイキング」のニックネームを持つ第121航空大隊および「戦士」あるいは「サンダーバード」こと第36航空大隊の二部隊が駐留する根拠地を慰問した。しかし、マーサが到着して間もなく、二つの部隊は近在から捕虜を輸送する命を帯びて出動することとなり、マーサは出動した軍人全員がショーを見ることができるよう待機し、部隊が帰還してからショーを開くこととなった。この南ベトナム・ツアーにおいてマーサは、慰問活動の合間にしばしば看護活動を行っていた。その時、出動していたUH-1「ヒューイ・スリック」1機が戦闘に巻き込まれ、ソクチャンへ帰還を余儀なくされるほどの損害を受けた、という報が根拠地にもたらされた。「ヒューイ・スリック」に搭乗していた一人は語る。 私は、「スリック」が敵の射撃を受けてテールローターとドライブシャフトに大きな損害を受けながらも、幸運にして生きながらえていることを知った。機体は応急点検の結果、1時間程度のフライトなら大丈夫だが、いずれにせよ着地後放棄されることとなった。なんとかソクチャンにたどり着くと、慰問の追加のショーで来ていたマーサが「何が起こったの?」と尋ねてきた。私はパイロットの生死に関する知らせを受け取っていなかったが、話を聞いていたマーサは「部隊全員が任務から戻るまで、私たち一行はここに残る」と言った。しかし、部隊の幾人かは任務から戻ってこなかった。マーサは帰ってこない兵員を待っている間、部隊の者とポーカーに興じ、部隊の士気を保つことに貢献した。私もその輪に加わってマーサとポーカーを楽しんだが、少し後悔した。マーサはこれまでの第二次世界大戦、朝鮮戦争などでのUSOの活動の中で、GI相手に何度もポーカーを数多く楽しんでいたからだ。もっとも、私は他の者もそうであったように、そのようなマーサを敬愛していた。任務はヴァイキング・パイロットと射手を失い、負傷者も何人か出ていた。准尉のパイロットは敵に撃たれた際、操縦していなかった。彼と残り2人の乗組員は何とかソクチャンに帰還したが、マーサがボランティアとして医師に交じって、看護活動を行った。すべての処置が完了し、マーサは部隊全員がそろったのを見計らって、ようやくショーを開始した。関係者は、マーサを卓越した芸能人であると同時に思いやりのある人物だとして高く評価した。このベトナム戦争の最中、マーサが予告なしでアメリカ陸軍特殊部隊群を電撃訪問した際にキャンプによからぬ出来事があったが、マーサはその収拾に手を貸した。部隊はマーサに「名誉グリーンベレー」の称号を与え、マーサは愛情をこめて「コロネル・マギー」と呼ばれるようになった。 — 1993年11月2日、マーサはビル・クリントン大統領から大統領自由勲章を授与された。 マーサ・レイはおよそ半世紀にまたがるキャリアを誇るパフォーマーであり、世界中の観客を虜にして喜ばせるスピリットを持っている。彼女は途方もない喜劇と音楽の才能をもって映画、舞台およびテレビを通じてアメリカのエンターテインメントを形成する一助をなした。また大いなる勇気と優しさ、そして愛国心を持つ彼女は第二次世界大戦中の慰問ツアーで認められ、朝鮮戦争とベトナム戦争では彼女に「コロネル・マギー」の称号が与えられた。マーサ・レイはアメリカ国民が誇れる人物の一人であり、休むことなしにアメリカ人の生活に益をなす贈り物を与え続けた女性である。 —
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慰問活動
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全国の刑務所、拘置所、少年院への慰問活動を積極的に行っていることで有名であり、慰問の回数は1000回を軽く超える。もともとは、笑点メンバー時代の1983年に妻の実家のある沖縄県の沖縄少年院に慰問に行ったのが最初で、その後北海少年院、久里浜少年院と慰問に訪れるが、この3つの少年院の院長が偶然にも同一人物(人事異動で沖縄→北海道→久里浜と転勤していた)だったという縁もあり、久里浜少年院の慰問の際に篤志面接委員の委嘱を受けて承諾。以後、少年院はもちろん、少年院で関係を持った職員達が刑務所や拘置所に異動したこともあり、そちらへの慰問も行うようになっていく。 1993年には自らを隊長に芸人慰問団「統幕芸激隊」を結成(「統幕」は統合幕僚会議の略。「芸激」は芸で激励するの意。才賀が「慰問」では辛気臭いということで命名)。現在は副隊長の太田家元九郎、「甲板士官」の三遊亭歌武蔵ら総勢78名、大阪支部もできるほどになっている。 篤志面接委員ということもあり、慰問を通じて感じた家族や社会の抱える問題についての講演活動も行っている。
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