コロムビア以後(戦中)
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コロムビアとの専属を解消した松平は、1941年(昭和16年)、タイヘイレコードに移籍する。自らの作曲作品「妹よ」などを吹込んだが、スローワルツの感傷曲は戦意高揚に合わずヒットしなかった。1942年(昭和17年)にはタイヘイがキングレコードに吸収され、フリーとなった。 これ以降、松平は慰問活動に重点を置くようになり、慰問団を結成してシンガポールや中国大陸など海外にも赴いていたため、レコードは1943年(昭和18年)にテイチクで吹込んだ「走れ日の丸銀輪部隊」の1枚が戦前・戦中では最後となった。 なおこの時に松平の前唄を務めたのが、当時新興キネマの女優であった森光子であった。松平は森とともに外地や国内の軍需工場の慰問活動を行っていたのである。
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コロムビア以後(戦後)
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松平は内地で終戦を迎えた。1945年(昭和20年)暮れの『紅白音楽試合』に出場、「花言葉の唄」を歌う。キング、ポリドールで数曲吹き込むがあまりパッとしなかった。 1949年(昭和24年)、ポリドールで6月新譜「久しぶりだよ」、9月新譜「伊豆のスーベニヤ」「伊東音頭」の3曲を出した後、1950年(昭和25年)キングレコードに移籍。ここで、江口夜詩と再会した。江口は戦後も岡晴夫、小畑実、津村謙らのヒット曲を作曲していた。 同年江口作詞・作曲の「湖畔の灯り」を吹込み、新天地での再起をはかろうとした。この年公演活動で渡航したブラジルで原因不明の血液病にかかり、何度も手術を受けた結果声が荒れ、さらに興行主のミスで日本へ戻れなくなり、約1年半足止めを食らうという不幸な事件に見舞われる。このため、帰国後にはせっかく結んだキングとの専属契約が切れており、結局「湖畔の灯り」がレコード歌手として最後の曲となってしまった。その後は、ラジオ東京(現・TBS)開局とともに始まった「素人のど自慢」の審査員を務めたりした。そして、後進の指導に傾注するようになっていく。 1956年(昭和31年)、東中野に松平晃歌謡学院を創立。松平の作曲である「風吹きがらす」でデビューしたテイチクの寿賀太郎をはじめ、ビクターの明石光司、東芝の五月女ひかりなどを育てている。歌謡学院での歌手の育成と並行し、作・編曲活動、また、請われれば往年のヒット曲をステージや放送で歌うなど、細々と活動を続けていたが、その過労がたたり、1961年(昭和36年)2月、歌謡学院の帰途に倒れ、翌3月8日、心筋梗塞症による心不全で49年の生涯を閉じた。霊前では、愛弟子たちが往年のヒット曲「花言葉の唄」を斉唱し、別れを惜しむ人々は厳かな雰囲気のなか歌声を聴きながら花束を捧げた。 没後も彼の業績を偲び、1969年(昭和44年)、藤山一郎の企画で、東京12チャンネル(現・テレビ東京)「なつかしの歌声」に松平晃を偲ぶ特集が放送され、翌年にはコロムビア創立60周年の企画としてLP「松平晃を偲んで」が発売されている。このLPによって松平晃の歌う「何日君再来」が初めて日の目を見たのであった。 1940年(昭和15年)に結婚した夫人との間に生まれた長女は、作曲家・福田和禾子。彼女は父の母校、東京藝術大学に進学し、父の遺志を継いで、多くの人に口ずさまれる作品を世に送り、「北風小僧の寒太郎」、卒業シーズンの定番曲「ありがとう・さようなら」などの作曲を手掛けている。亡父の親友であった藤山一郎は、晩年まで自分の演奏会には、ピアニストとして彼女を務めさせている。
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