コロムビア専属へ
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1929年(昭和4年)、イギリスロンドン市のチェスター社が発行する音楽雑誌『ザ・チェスターリアン』第10巻第77号に掲載された管弦楽作品の懸賞募集を見て、同年7月に管弦楽のための舞踊組曲『竹取物語』を含む5つの作品を応募した。同年12月に福島商業学校の恩師、丹治嘉市に「2等に5曲共入賞致しました。協会からは既に旅費、及びその他の費用として、£400の金が送金されて来ました。」と手紙で報告し、1930年(昭和5年)1月23日の福島民報新聞、福島民友新聞など各紙で入賞を大々的に報道された。これらを典拠として『竹取物語』を日本人初の国際的作曲コンクール入賞作品とする文献があるが、この作品が二等に入賞したとされる作曲懸賞募集の詳細は明らかになっていない。これは国際現代音楽協会主催現代音楽祭作品公募へのイギリス支部推薦を、古関が入賞と勘違いしたという説もある。日本人の国際作曲コンクールあるいは国際作品公募において、現在も日本初であることが記録されているのは外山道子の「やまとの声」である。 『竹取物語』は、色彩的で斬新なオーケストレーションがなされており、また、打楽器のみで演奏される楽章なども含まれていたといわれる。 この入賞の報道を読んだ、声楽家志望で愛知県豊橋市在住の内山金子(きんこ)が古関にファンレターを送り、その後も100通を超える熱烈な文通を経て1931年2月9日、古関21歳、金子18歳で入籍し、同年5月19日に結婚式を挙げた。古関はたいへんな愛妻家で、晩年までおしどり夫婦であったという。 この頃、古関は複数の交響曲やピアノ協奏曲、交響詩『ダイナミック・モーター』、弦楽四重奏曲など、膨大な作品群を完成させていたが、それらの楽譜は遺族が管理を怠り現在ほとんど行方不明になっている。『竹取物語』の所在も知れないという。 1930年9月、コロムビアの顧問山田耕筰の推薦でコロムビア専属の作曲家に迎え入れられ、夫婦で上京した。東京では菅原明朗に師事した。菅原とは同年9月から11月頃に出会い、童謡歌手の古筆愛子の自宅で開かれた勉強会で菅原からリムスキー=コルサコフ著『実用和声法』を教科書として学んだのち、1933年から1934年頃までの2年間、菅原から個人教授を受けた。菅原は『竹取物語』のスコアを読んで驚き、古関には深井史郎よりも才能があったと、後年まで称賛している。師と仰いだ菅原明朗のほかに、橋本國彦とも親交が厚かった。 しかし、古関は実家が経済的に破綻してからは一族を養わなくてはならず、次第にクラシックの作曲から離れざるをえなくなった。コロムビア入社も主に生活費のためであったと考えられる。古関本人は作曲の勉強のための洋行を希望していたが、自身の内気な性格と当時の不況などが重なりそれは叶わなかった。東京に移ってからのオーケストラ作品には、関東大震災を描いた交響詩『大地の反逆』があり、これはストラヴィンスキー的な音楽であるといわれている。また、無調的な歌曲『海を呼ぶ』なども作曲している。 1934年(昭和9年)、古関が25歳の頃、「利根の舟唄」(詩:高橋掬太郎、唄:松平晃)が自身初のヒット曲となり、作曲家としての地位を確立。翌年の1935年(昭和10年)には新民謡調の「船頭可愛や」(詩:高橋掬太郎、唄:音丸)が26万枚を売り上げる大ヒットを記録し、人気作曲家の仲間入りを果たす。「船頭可愛や」は瀬戸内海をイメージした長調の曲で、1939年(昭和14年)には世界の舞台でも活躍したオペラ歌手・三浦環もレコードに吹き込んでいる。 この頃、声楽家志望だった妻の金子は帝国音楽学校へ進んでいた。金子は後に声楽家のベルトラメリ能子(よしこ)及びその師のディーナ・ノタルジャコモの教えを受けた。また同時期に古関は伊藤久男と交流を持ち、伊藤久男も帝国音楽学校へ入学することになる。作曲家の古関と作詞家の野村俊夫(福島市出身)、歌手の伊藤久男(本宮市出身)の三人はいずれも福島県出身で「コロムビア三羽ガラス」と呼ばれた。
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