コロムビア以前
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1911年(明治44年)6月26日、佐賀県佐賀市の福田家に「福田恒治」(本名)として生まれる。 小学校の頃から歌が好きで、佐賀中学卒業後「音楽で身を立ててはどうか」と兄に勧められたこともあって音楽の道を志す。しかし旧家の出身であったこともあって父親に猛烈に反対されてしまい、兄の必死のとりなしでようやく許可がおり、単身上京。 1930年(昭和5年)の春、武蔵野音楽学校(現:武蔵野音楽大学)に入学。1931年(昭和6年)、東京音楽学校(現:東京芸術大学)師範科に転学、苦学をしながら声楽の基礎を学んだ。だが実家が借金の連帯保証人となっていたあおりを受けて邸宅や田畑を手放す不運にみまわれた上、病身の兄の治療費を捻出する必要があったため、仕送りが途絶えてしまった。苦境に立った福田は、同校の先輩・増永丈夫に相談する。 増永丈夫は声楽本科在学中で、将来を嘱望されていた。また、藤山一郎の芸名で、古賀政男が作曲した一連のヒット曲(古賀メロディー)を歌い一世風靡させ、流行歌手として高い評価を得ていた。増永は、ニットーレコードで「藤井竜男」名義でもレコード吹込みをしていたが、停学処分によって吹込みができなくなっていたことから、代わりとして福田をニットーレコードに紹介したのである。テストでは、増永がピアノ伴奏を受け持っている。 1932年(昭和7年)に「大川静夫」と名乗り、「夏は朗らか」「讃えよ若き日」でレコードデビュー。「夏は朗らか」は江口夜詩作曲。その甘い歌声はたちまち人気となり、福田青年は「池上利夫」「松平不二男」「小川文夫」などの変名を使い、ニットーの他ポリドール、キング、タイヘイ、テイチク、パルロフォンでアルバイト吹込みを続けた。同年11月にはポリドールから新譜発売された「忘られぬ花」がヒット。このときは池上利夫の名前を使っている。 福田青年は、学生歌手として活躍するが、当時使用した変名はニットーが「大川静夫」「松平利夫」(最末期のみ)、ポリドールが「池上利夫」、キングが「松平不二男」、タイヘイが「小川文夫」(同時期に楠木繁夫も使用)、テイチクが「松平不二夫」、パルロフォンが「松平不二男」「柳沢和彦」であった。
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