コロムビア時代後半(1936〜40年)
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「松平晃」の記事における「コロムビア時代後半(1936〜40年)」の解説
1936〜1938年(昭和11〜13年)にかけて、東海林太郎・上原敏のポリドールの道中物、藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫らが歌う古賀メロディーのテイチク、江口夜詩―松平晃のコロムビア、佐々木俊一が台頭するビクターと激しいヒット競争が展開した。昭和13年霧島昇・ミス・コロムビアが歌う「旅の夜風」が大ヒットし、コロムビアは映画主題歌で全盛期を迎える。1940年(昭和15年)からは古賀メロディーの第三期黄金時代を迎え、松平晃の人気も翳りが見えてきた。 松平は、淡谷のり子の「別れのブルース」のB面「泪のタンゴ」など甘い歌声を披露したが、昭和12年10月新譜で発売された「露営の歌」が大ヒットしたことにより、甘い抒情的なバリトンが得意であった松平は、戦時歌謡の吹込みが多くなる。またこの頃より戦地慰問に訪れたり、古川緑波率いる「ロッパ一座」の寸劇に出演したり、舞台にも活躍する。また新聞記事に感動して「石と兵隊」を自ら作曲したり、ポピュラーソング「夜の雨」を自ら歌詞を付けてレコーディングしたりしてもいる。だが、霧島昇の台頭により次第に松平の人気も翳りが見え、1938年(昭和13年)以降はスターダムからの凋落を見せ始める。 1938年(昭和13年)、伊藤久男、赤坂小梅、渡辺はま子、服部良一らと中国大陸を慰問した際、現地で流行していた「何日君再来」を採譜して持ち帰り、自らレコーディング。だが、コロムビアの方針で渡辺はま子盤が発売され、松平晃吹込みのレコードは発売されなかった。さらにそこに打撃を与えたのが1939年(昭和14年)4月の藤山一郎のテイチクからコロムビアへの移籍である。松平は、翌昭和15年(1940年)、「幻の故郷」を最後に専属契約を解消、コロムビアを去った。
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