コロムビア時代前半(1933〜36年)
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「松平晃」の記事における「コロムビア時代前半(1933〜36年)」の解説
コロムビアでの吹込みは1933年(昭和8年)3月新譜「かなしき夜」「港の雨」からである。いずれも江口夜詩作曲。コロムビアは古賀政男作曲の「サーカスの唄」の吹込みを藤山一郎を予定していた。だが、藤山一郎はビクターに入社。そこで、コロムビアは、松平晃を抜擢し吹込ませた。同社は藤山一郎のその対抗馬ということで後輩である松平に期待したのである。その期待に応える形で松平は古賀政男の作曲・「サーカスの唄」にて大ヒットを飛ばし、一気にスターダムの地位へ上りつめる。 同年11月、松平は東京音楽学校を中退した。レコード吹込みが学校当局で問題になっており、流行歌手の途を選択した。翌1934年(昭和9年)から正式に「松平晃」として専属契約を結ぶこととなった。コロムビアは、すでに江口夜詩―松平晃コンビに力をいれており、同年4月に古賀がテイチクに移籍した後は、コロムビアの看板歌手になる。同年1月新譜「希望の首途」、2月新譜「急げ幌馬車」、11月新譜「曠野を行く」がヒットしている。殊に「急げ幌馬車」は旧満州を舞台として放浪の旅人の姿やその恋愛模様を描いた「曠野物」・「大陸歌謡」ブームの火付け役となり、松平自身も青春歌謡と併せ大いに得意とした。但し「希望の首途」は実際には発売当時はヒット曲ではなく、当時レコード会社が新聞紙上に広告を打って大々的にPRしたため、後世の懐メロ本で「ヒット曲」扱いされたとする説もある。 こうして中野忠晴と並びコロムビアの看板歌手となった松平は、1934年(昭和9年)から1936年(昭和11年)にかけて、ビクター→テイチクの藤山一郎、ポリドールの東海林太郎と並び、流行歌の一時代を築き上げることになる。「曠野を行く」で組んだ豆千代とのデュエット「夕日は落ちて」、松竹映画主題歌の「人妻椿」などの大ヒットを続ける一方で、甘いマスクが買われスクリーンにも活躍。日活映画「花嫁日記」をはじめ、新興キネマ「初恋日記」、松竹映画「純情二重奏」、東宝映画「歌えば天国」と数多くの映画にも出演している。 しかし、私生活、殊に恋愛関係では一途すぎる性格が災いしてトラブルが相次いだ。たとえば「花嫁日記」で共演した市川春代に思いを寄せたが、周囲の反対に嫌気をさして自殺未遂を起こしている。また、主演した「初恋日記」では相手役の伏見信子と婚約までしたが、スター同士のためお互いの生活にすれ違いが多いことや、松平との性格の不一致などのもあり、1年足らずで婚約破棄してしまったことなどがそれである。
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