ビクターに入社とは? わかりやすく解説

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ビクターに入社

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 04:33 UTC 版)

藤山一郎」の記事における「ビクターに入社」の解説

1933年昭和8年3月藤山東京音楽学校首席卒業した。『週刊音楽新聞』は卒業演奏における「歌劇道化師』のアリア」「歌劇密猟者英語版)』より」の独唱取り上げ東京音楽学校始まって以来声楽家になるのではないか評した藤山レコード歌手になって実家借金返済したいという思い強く卒業直後にビクターに入社し、同社専属歌手となったビクター前年の春から藤山接触し毎月100円学費援助行っていた。『酒は涙か溜息か』などのヒット曲コロムビアから発売された曲であったことから藤山コロムビア入社考えたが、停学となって以来長らく接触途絶えた上、ようやく交渉開始してからも藤山求めた月給制を拒絶したため、月給100円加え2%レコード印税支払い約束したビクター入社決めた。だが、1933年3月コロムビアから発売されワーグナーオペラローエングリン』のレコードには、藤山本名増永丈夫独唱者に名前を連ねている。藤山一郎ビクター入社経緯について菊池清麿は、藤山ビクター入社きっかけ安藤兵部獲得動いたこと、当時ビクターには、橋本國彦徳山璉四家文子東京音楽学校先輩専属におり、クラシックと大衆音楽両立しやすい雰囲気があったことを指摘している。ビクター藤山奪われるとなったコロムビアは、作曲家佐々紅華作詞家時雨音羽ビクターから引き抜いた入社2年目までの藤山東京音楽学校研究科生として在籍してヴーハーぺニッヒ指導受けており、作曲編曲吹き込みなどを行う傍ら学校やヴーハーペニッヒの自宅にも通った1933年4月には読売新聞社主催新人演奏会東京音楽学校代表として出演し同年6月18日には東京音楽学校日比谷公会堂での定期演奏会出演している。クラウス・プリングスハイム指揮ベートーヴェン第九』をバリトン独唱。この時期藤山様々なジャンルの歌を歌っている。公演をみると1933年10月日比谷公会堂で「藤山一郎増永丈夫の会」を催し藤山一郎としてジャズ流行歌を、増永丈夫としてクラシックを歌い美し響き声量豊かに独唱する増永丈夫マイクロフォン効果的に利用したテナー藤山一郎演じ分け双方分野音楽的魅力披露したレコードをみると、流行歌以外にクラシック(ワーグナーシューマン)やジャズレコード出している。 ビクター時代藤山は『燃え御神火』(売上187,500)、『僕の青春』(売上100,500)などがヒットしたが、音楽学校在校中に吹き込んだ古賀メロディーほどの大ヒット曲には恵まれなかった。藤山はこの時期振り返り、「私の出る幕はなかった」、「レコード売り上げ枚数をもって至上命題とするプロ歌手の壁は厚かった」と述べている。ビクターのライバルコロムビアでかつて放ったヒットをしのぐことはできなかった。その一方、「官学出身者厭味アカデミズム排し下品な低俗趣味避けたいとも考えていた。私はみんなが楽しめる音楽紹介と、そのプレーヤーとして生きる」という思いのもと、「シューマンを歌う。欧米名曲民謡を歌う、そして、もちろん、流行歌も歌う」充実した日々であった述べている。

※この「ビクターに入社」の解説は、「藤山一郎」の解説の一部です。
「ビクターに入社」を含む「藤山一郎」の記事については、「藤山一郎」の概要を参照ください。

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