ビクター・キニョネス体制
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「IWA・JAPAN」の記事における「ビクター・キニョネス体制」の解説
1992年、W★INGプロモーションの創設者の1人で悪役マネージャーだったビクター・キニョネスは、W★INGの代表であった茨城清志と衝突してW★INGから撤退。その後、W★INGが崩壊したことにより残された元所属選手を救済する目的によって設立。 1994年5月21日、後楽園ホールで旗揚げ戦を開催。当時、実際のオーナーはキニョネスだったが、登記その他の理由からキニョネスの知人である日本人の若手実業家を社長に迎える(後に団体内のトラブルからキニョネスが代表に就任)。 IWA流山から移籍した荒谷信孝(現:荒谷望誉)をエースに、W★INGから移籍した金村ゆきひろ(現:金村キンタロー)が対抗して、それにキニョネスがブッキングした外国人選手が絡むと言う図式で興行を開催。 その後、金村がFMWに、荒谷がWARに移籍して両エースが離脱する事態に直面するが、金村同様にW★INGから移籍した中牧昭二と小野浩志がタッグチーム「血みどろブラザーズ」を結成して「画鋲デスマッチ」などの過激なデスマッチを展開。それに加えてキニョネスのブッキングでテリー・ファンク、カクタス・ジャック、ダン・スバーン等の大物選手を招聘。加えて、当時のライバル団体であったFMWを退団したターザン後藤、ミスター雁之助、フライングキッド市原のユニット「真FMW」なども参戦。 1995年8月20日、川崎球場で興行を開催する程の隆盛を得る。同年、NWAにも加盟。11月から12月、NWA世界タッグ・リーグ戦を開催した他にNWA世界ヘビー級選手権試合も組まれたことがあった。
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