「レコード歌謡」
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「流行り唄」から、流行歌への移行の胎動が見られ始めるのは、昭和3年(1928年)のことである。日本ビクター、日本コロムビアなど外資系レコード産業の成立によって、マイクロフォンを使用した電気吹込みによるレコード歌謡が誕生した。大正時代の書生節・流行り唄と異なり、レコード会社が企画・製作し宣伝によって大衆に選択させる仕組みが生まれた。その中で浅草オペラの出身の二村定一が流行歌への先鞭を付けた。二村は芸の一部として歌を用い、大正末期からジャズ・ソングをニッポノホンで吹込み、その他にナンセンスなコミックソングを多く歌っていたが、昭和3年に出したジャズ(現在のイージーリスニングにあたる軽音楽の総称)に日本語詞をつけた「あお空」「アラビヤの唄」のヒットにより、井田一郎のバンドでジャズ歌手としての活動も開始する。 一方、声楽家であった佐藤千夜子は、ビクターで昭和3年発売の「波浮の港」を吹込み本格的な流行歌手として登場した。藤原義江が米国ビクターで吹込んだ赤盤と併せてかなりのレコード売り上げをしめした。昭和4年(1929年)に「東京行進曲」をヒットさせ歌謡界の女王として「日本最初のレコード歌手」の栄誉を手にすることになる。彼女を昭和流行歌の嚆矢とする説があるゆえんである。 それまで歌手といえば書生節の街頭演歌師であり、洋楽系歌手の登場は昭和の新しい流行歌手の誕生でもあった。しかし多くの歌手は母音に響きだけのビブラートを使って声を張り上げて歌うことが多く、当時の録音技術の未熟さも相まって歌唱が不明瞭になってしまっていた。佐藤千夜子はオペラ調、二村は日本語が明瞭であり、二人の歌唱は非常に画期的であった。のち二村は舞台に専念し佐藤はイタリアへ留学してそれぞれ流行歌の世界から身を引いてしまう。しかしその後佐藤千夜子に刺激を受け、声楽家が流行歌やレコード歌謡に進出するなど、残した影響は大きかった。2人のレコードを制作していたビクターは、作曲家に中山晋平・佐々紅華。作詞家には時雨音羽・堀内敬三を擁し、他社を押さえて大きく躍進した。 流行歌の発生以後、レコード会社が乱立した。しかし多くは零細会社であった。メジャーレーベル以外の会社をマイナーレーベルと呼ぶ。マイナーレーベルの中には後のスター歌手の踏み台として使われたものもあったが、多くは無名の人物の歌を出し続け、数年で潰れることも多かった。ひどい場合には大手レコード会社の盤から無理矢理型を取って偽物の海賊版を作るものもあった。テイチクも元はマイナーレーベルであったが、古賀政男と藤山一郎を引き抜いたことで一気に大手にのし上がった。 また、戦前にはレコード店以外に夜店で流行歌のレコードが売られることがあった。その多くはマイナーレーベルのもので、その非常に軽い扱いは当時の流行歌の地位の低さを象徴的に示す事象ともいえる。なお霧島昇はこの夜店販売のレコードに吹き込んだ歌がコロムビアの社員に注目され、メジャーデビューした。 初期の流行歌では、しばしば以前のヒット曲を「廉価盤」「普及盤」「大衆盤」と称して再発することがあった。多くは盤のカップリングを変える程度であったが、まだ零細会社であった頃のテイチクは、松平晃がコロムビアでメジャーデビューした直後、過去「松平不二夫」名義で自社で出した曲を曲名を変更した上「松平晃」名義で再発するという大胆な行動に出たことがある。 佐藤のヒットから2年後の昭和6年(1931年)、コロムビアで流行歌の制作に携わっていた古賀政男は、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)の学生・藤山一郎と組んで「酒は涙か溜息か」を発表した。ごく短い歌であったが、それまでの大衆歌謡と全く異なる音楽性、そして電気マイクの特質を利用した「クルーン唱法」による情感あふれる歌唱に人々は魅了され、同曲は大きなヒットを飛ばした。声楽技術の正統な解釈による歌唱は日本語の質感を高め、古賀政男のギター曲の魅力を広めることになった。なお、古賀政男、古関、中山晋平、山田耕作らは軍歌も多数書いている。 これがきっかけとなり、同様の手法による歌が各レコード会社で制作されるようになり、歌手も次々とデビューした。当初「流行小唄」と言われたが、やがて「流行歌」の名称が定着、世間に瞬く間に広がることとなった。 初期の頃は新興分野ということもありレコード会社の勢力も歌手の人気もはっきりしなかったが、昭和6年の古賀メロディーのヒットから昭和11年頃になると大体の勢力範囲が決まり始め、コロムビア、テイチク、ポリドールの3社が大きな勢力であった。 コロムビアに所属したのは松平晃、中野忠晴、伊藤久男、関種子、ミス・コロムビア、淡谷のり子。 テイチクには藤山一郎、ディック・ミネ、楠木繁夫。 ポリドールには東海林太郎。 他にビクターとキングがあった。ビクターはかつて主力としていた作曲家の中山晋平が流行歌向きでなかったために時流に乗り遅れ、また昭和8年(1933年)ビクターに入社した藤山一郎は流行歌も歌うが本名の増永丈夫でクラシックを歌う関係上本格的でなく、徳山璉、四家文子らもクラシックの声楽家としての活動が主体であり、「涙の渡り鳥」「島の娘」「無情の夢」を作曲した佐々木俊一の台頭、日本調の小唄勝太郎らがビクターを支えていた。昭和15年以後は灰田勝彦の人気が全国的となり、戦前のビクターの看板歌手を代表した。 キングは既に流行歌手として実績を持っていた東海林太郎と専属契約をしたものの、ポリドールに借り出した際に「赤城の子守唄」でヒットを飛ばされ、そのままポリドールと二重契約を認めざるを得なくなったばかりか、相手方でばかりヒットを飛ばされるという目に遭い、結局戦前は中堅以上になれないまま終わった。 また、流行歌の作詞・作曲を専門とする作詞家や作曲家が多数出現した。作曲家では古賀政男・江口夜詩・古関裕而・服部良一らを筆頭に、竹岡信幸、阿部武雄などが、作詞家では西條八十・佐藤惣之助を筆頭に、サトウ・ハチロー、藤田まさとらが活躍した。 流行歌は庶民の生活に寄り添う形でその制作数を増し続けた。当時の第一の娯楽であった映画とリンクしたことが、普及に大いに役立つことになった。「沓掛小唄」・「旅の夜風」などの主題歌、さらに映画俳優による歌の吹き込みや人気歌手の映画出演、「百万人の合唱」「裏まち交響樂」「鴛鴦歌合戦」などの音楽映画制作が好例である。 また「赤城の子守唄」・「妻恋道中」・「裏町人生」などの正統派の演歌も多く作られ現在も歌い継がれている曲が多い。さらに「天国に結ぶ恋」・「肉弾三勇士」などの時事問題、「ハイキングの唄」・「波浮の港」・「スキーの唄」などピクニックブームや大島ブーム、スキーブームといった流行を取り入れた作品も発表された。 「祇園小唄」・「茶切節」・「東京音頭」といった「新民謡」という形で地方の風物を歌ったり、時には小唄勝太郎・市丸・美ち奴・新橋喜代三など芸者を歌手として起用して(芸者歌手)、「島の娘」「明治一代女」を代表作とする邦楽の要素を強く持った曲を打ち出した。また、ディックミネ・淡谷のり子らによる「ダイナ」・「酒が飲みたい」・「別れのブルース」など欧米のポピュラー音楽をベースにした作品は、戦後、笠置シヅ子、江利チエミ、雪村いづみらに受け継がれポップス歌謡の源流を生み出した。
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