「レコード歌謡」とは? わかりやすく解説

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「レコード歌謡」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 01:53 UTC 版)

流行歌」の記事における「「レコード歌謡」」の解説

「流行り唄」から、流行歌への移行胎動見られ始めるのは、昭和3年1928年)のことである。日本ビクター日本コロムビアなど外資系レコード産業成立によって、マイクロフォン使用した電気吹込みによるレコード歌謡誕生した大正時代書生節流行り唄異なりレコード会社企画・製作宣伝によって大衆選択させる仕組み生まれたその中で浅草オペラ出身二村定一流行歌への先鞭付けた二村は芸の一部として歌を用い大正末期からジャズ・ソングをニッポノホンで吹込みその他にナンセンスなコミックソング多く歌っていたが、昭和3年出したジャズ現在のイージーリスニングにあたる軽音楽総称)に日本語詞をつけた「あお空」「アラビヤの唄」のヒットにより、井田一郎バンドジャズ歌手としての活動開始する一方声楽家であった佐藤千夜子は、ビクター昭和3年発売の「波浮の港」を吹込み本格的な流行歌手として登場した藤原義江米国ビクター吹込んだ赤盤併せてかなりのレコード売り上げをしめした。昭和4年1929年)に「東京行進曲」をヒットさせ歌謡界女王として「日本最初レコード歌手」の栄誉手にすることになる。彼女を昭和流行歌嚆矢とする説があるゆえんである。 それまで歌手といえば書生節街頭演歌師であり、洋楽歌手登場昭和新し流行歌手誕生でもあった。しかし多く歌手母音響きだけのビブラート使って声を張り上げて歌うことが多く当時録音技術未熟さ相まって歌唱不明瞭になってしまっていた。佐藤千夜子オペラ調、二村日本語明瞭であり、二人歌唱は非常に画期的であった。のち二村舞台専念し佐藤イタリアへ留学してそれぞれ流行歌世界から身を引いてしまう。しかしその後佐藤千夜子刺激を受け、声楽家流行歌レコード歌謡進出するなど、残した影響大きかった2人レコード制作していたビクターは、作曲家中山晋平佐々紅華作詞家には時雨音羽堀内敬三擁し他社押さえて大きく躍進した。 流行歌発生以後レコード会社乱立した。しかし多く零細会社であったメジャーレーベル以外の会社マイナーレーベルと呼ぶ。マイナーレーベル中には後のスター歌手踏み台として使われたものもあったが、多く無名人物の歌を出し続け数年で潰れることも多かった。ひどい場合には大手レコード会社の盤から無理矢理型を取って偽物海賊版作るものもあった。テイチクも元はマイナーレーベルであったが、古賀政男藤山一郎引き抜いたことで一気大手にのし上がったまた、戦前にはレコード店以外に夜店流行歌レコード売られることがあった。その多くマイナーレーベルのもので、その非常に軽い扱い当時流行歌地位低さ象徴的に示す事象ともいえる。なお霧島昇はこの夜店販売レコード吹き込んだ歌がコロムビア社員注目されメジャーデビューした。 初期流行歌では、しばしば以前ヒット曲を「廉価盤」「普及盤」「大衆盤」と称して再発することがあった。多くは盤のカップリング変える程度であったが、まだ零細会社であった頃のテイチクは、松平晃コロムビアメジャーデビューした直後過去松平不二夫」名義自社出した曲を曲名変更した上「松平晃名義再発するという大胆な行動出たことがある佐藤ヒットから2年後昭和6年1931年)、コロムビア流行歌制作携わっていた古賀政男は、東京音楽学校(現東京芸術大学音楽部)の学生藤山一郎組んで酒は涙か溜息か」を発表した。ごく短い歌であったが、それまで大衆歌謡と全く異な音楽性、そして電気マイク特質利用したクルーン唱法」による情感あふれる歌唱人々魅了され、同曲は大きなヒット飛ばした声楽技術正統解釈による歌唱日本語質感高め古賀政男ギター曲魅力広めることになった。なお、古賀政男古関中山晋平山田耕作らは軍歌多数書いている。 これがきっかけとなり、同様の手法による歌が各レコード会社制作されるようになり、歌手次々とデビューした当初流行小唄と言われたが、やがて「流行歌」の名称が定着世間瞬く間広がることとなった初期の頃新興分野ということもありレコード会社勢力歌手人気はっきりしなかったが、昭和6年古賀メロディーヒットから昭和11年頃になると大体の勢力範囲決まり始めコロムビアテイチクポリドールの3社が大きな勢力であったコロムビア所属したのは松平晃中野忠晴伊藤久男関種子ミス・コロムビア淡谷のり子テイチクには藤山一郎ディック・ミネ楠木繁夫ポリドールには東海林太郎。 他にビクターキングがあった。ビクターはかつて主力としていた作曲家中山晋平流行歌向きでなかったために時流乗り遅れ、また昭和8年1933年ビクターに入社した藤山一郎流行歌も歌うが本名増永丈夫でクラシックを歌う関係上本格的でなく、徳山璉四家文子らもクラシックの声楽家として活動主体であり、「涙の渡り鳥」「島の娘」「無情の夢」を作曲した佐々木俊一台頭日本調の小唄勝太郎らがビクター支えていた。昭和15年以後灰田勝彦人気全国的となり、戦前ビクター看板歌手代表したキングは既に流行歌手として実績持っていた東海林太郎専属契約したものの、ポリドール借り出した際に「赤城の子守唄」でヒット飛ばされそのままポリドール二重契約認めざるを得なくなったばかりか相手方でばかりヒット飛ばされるという目に遭い結局戦前中堅以上になれないまま終わったまた、流行歌作詞・作曲専門とする作詞家作曲家多数出現した作曲家では古賀政男江口夜詩古関裕而服部良一らを筆頭に、竹岡信幸阿部武雄などが、作詞家では西條八十佐藤惣之助筆頭に、サトウ・ハチロー藤田まさとらが活躍した流行歌庶民の生活に寄り添う形でその制作数を増し続けた当時第一娯楽であった映画リンクしたことが、普及大いに役立つことになった。「沓掛小唄」・「旅の夜風」などの主題歌、さらに映画俳優による歌の吹き込み人気歌手映画出演、「百万人の合唱」「裏まち交響樂」「鴛鴦歌合戦」などの音楽映画制作好例である。 また「赤城の子守唄」・「妻恋道中」・「裏町人生」などの正統派演歌多く作られ現在も歌い継がれている曲が多い。さらに「天国に結ぶ恋」・「肉弾三勇士」などの時事問題、「ハイキングの唄」・「波浮の港」・「スキーの唄」などピクニックブームや大島ブームスキーブームといった流行取り入れた作品発表された。 「祇園小唄」・「茶切節」・「東京音頭」といった「新民謡」という形で地方風物歌ったり、時には小唄勝太郎市丸美ち奴新橋喜代三など芸者歌手として起用して芸者歌手)、「島の娘」「明治一代女」を代表作とする邦楽要素強く持った曲を打ち出したまた、ディックミネ淡谷のり子らによる「ダイナ」・「酒が飲みたい」・「別れのブルース」など欧米ポピュラー音楽ベースにした作品は、戦後笠置シヅ子江利チエミ雪村いづみらに受け継がれポップス歌謡源流生み出した

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