五木寛之と「演歌」の誕生とは? わかりやすく解説

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五木寛之と「演歌」の誕生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 13:56 UTC 版)

演歌」の記事における「五木寛之と「演歌」の誕生」の解説

1966年五木寛之馬淵玄三モデルにした小説艶歌」を発表した同作ではレコード社内での艶歌外来音楽プロデューサー互い進退をかけて売り上げ競う筋書きであり、艶歌プロデューサーモデル馬淵とされる。このモデル人物馬淵比べて五木の手によって脚色されており、 「艶歌」はレコード歌謡初期から存在している。 「艶歌」は軍歌明朗快活な歌(「リンゴの唄など」)とは別の独自のカテゴリー構成している。 「艶歌制作は勘頼り職人芸であり、合理的な西洋音楽とは相いれないのである。 「艶歌」はマーケティングによる派手な売り出しなどは行わず地道に売るものである。 などのような含意新たに加えられていた。また、艶歌ジャズブルース同じく孤立無援人間の歌、「日本人ブルース」であり、「艶歌無視した地点に、日本人のナショナル・ソングは成立しないだろう」と登場人物言わしめた。そして、当初艶歌否定していた主人公終盤艶歌歌い方が「下品だ」と批判されたことに対して演歌歌い方は、「差別され踏みつけられている人間が、その重さ食いしばって全身はねのけようとする唸り声」である、と喝破した五木同作通じて社会批判の「演歌」が芸能化して艶歌となったことを肯定的にとらえた従来論壇では政治的批判精神欠落として演歌艶歌化は批判対象になっていたのであるが、五木逆に演歌を「大衆自身の声ではなくインテリゲンチャ警世の歌」であることが演歌弱さであって艶歌転ずることによって庶民口に出せない怨念悲傷を、艶な詩曲転じて歌う「怨歌」になったのだ、と後に記している。五木艶歌の定義として設けた暗さ」や「感傷性」は、従来楽曲ジャンル分けのどれとも異な新し枠組みであった五木小説によって、演歌推移を巡る歴史観根本的に変えられる至ったのである

※この「五木寛之と「演歌」の誕生」の解説は、「演歌」の解説の一部です。
「五木寛之と「演歌」の誕生」を含む「演歌」の記事については、「演歌」の概要を参照ください。

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