五木寛之と「演歌」の誕生
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1966年、五木寛之は馬淵玄三をモデルにした小説「艶歌」を発表した。同作ではレコード社内での艶歌と外来音楽のプロデューサーが互いの進退をかけて売り上げを競う筋書きであり、艶歌のプロデューサーのモデルが馬淵とされる。このモデルの人物は馬淵と比べて、五木の手によって脚色されており、 「艶歌」はレコード歌謡の初期から存在している。 「艶歌」は軍歌や明朗快活な歌(「リンゴの唄など」)とは別の独自のカテゴリーを構成している。 「艶歌」制作は勘頼りの職人芸であり、合理的な西洋音楽とは相いれないものである。 「艶歌」はマーケティングによる派手な売り出しなどは行わず、地道に売るものである。 などのような含意が新たに加えられていた。また、艶歌はジャズやブルースと同じく孤立無援の人間の歌、「日本人のブルース」であり、「艶歌を無視した地点に、日本人のナショナル・ソングは成立しないだろう」と登場人物に言わしめた。そして、当初は艶歌を否定していた主人公は終盤、艶歌の歌い方が「下品だ」と批判されたことに対して、演歌の歌い方は、「差別され、踏みつけられている人間が、その重さを葉を食いしばって全身ではねのけようとする唸り声」である、と喝破した。 五木は同作を通じて、社会批判の「演歌」が芸能化して「艶歌」となったことを肯定的にとらえた。従来の論壇では政治的批判精神の欠落として演歌の艶歌化は批判の対象になっていたのであるが、五木は逆に演歌を「大衆自身の声ではなく、インテリゲンチャの警世の歌」であることが演歌の弱さであって、艶歌に転ずることによって庶民の口に出せない怨念悲傷を、艶なる詩曲に転じて歌う「怨歌」になったのだ、と後に記している。五木が艶歌の定義として設けた「暗さ」や「感傷性」は、従来の楽曲のジャンル分けのどれとも異なる新しい枠組みであった。五木の小説によって、演歌の推移を巡る歴史観が根本的に変えられるに至ったのである。
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