戦後のレコード歌謡の西洋化と演歌の原型の誕生
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「演歌」の記事における「戦後のレコード歌謡の西洋化と演歌の原型の誕生」の解説
1945年の敗戦を境に、戦前からの連続的な文化的要素は押しなべて「反動的」「封建的」とみなされ、進歩的文化人から忌避された。基本的にはレコード歌謡全般が忌避され、うたごえ運動や勤労者音楽協議会(労音)の主導でロシア民謡や労働歌が「明るく健康な歌」とされた。 レコード歌謡では、米国から流れてきたジャズ調の曲が主流を占める。吉田正がジャズ系の楽曲を生みだし、フランク永井、水原弘、石原裕次郎などが歌唱した。彼らは揃って声域が低音であったため、芸者、民謡などの旧来の歌手がいずれも高音系であったのと対比されてより「西洋らしさ」、モダンな都会性を醸し出したのである(「都会調」)。その他の作家としては、古賀政男、服部良一、西條八十、藤浦洸らがいる。1960年頃からは、橋幸夫、吉永小百合などの「青春歌謡」などのジャンルも生まれた。また、うたごえ運動出身のいずみたくは労音の曲などをつくったのちCMソングの世界に進出し、ホームソングの生みの親となった。 一方で、1955年頃からラジオが地方へ普及するにつれて、地方を舞台にした楽曲が生み出された(「田舎調」)。これらは股旅物や後の「ご当地ソング」のような様式化された地方ではなく、戦後の地方出身者の都会への進出を背景とした「望郷」がテーマになることが多かった。初期の歌手では春日八郎(「別れの一本杉」など)、島倉千代子(「逢いたいなァあの人に」など)、三橋美智也(「リンゴ村から」など)、作曲家としては船村徹などが挙げられる。島倉は上述の芸者風の歌唱法(泣き節)で歌い、三橋は初めて民謡調の発声をレコードに吹き込むなど、田舎調は論壇では劣勢な「日本調」的な特徴を持っていた。田舎調の楽曲は会話調の歌詞に起伏に富んだ旋律がつくもので、都会調で席捲されていたレコード歌謡に衝撃を与える。一部からは「畳替えをした新しい桟敷の上を土足で歩くような作家が出てきた」と非難された。後に村田英雄が浪曲系から加わり「王将」(1961年)がヒット。更に美空ひばりと古賀政男という都会調を代表するコンビも「柔」(1964年)や「悲しい酒」(1966年)など田舎調に近い楽曲を発表した。後年ひばりが「演歌」歌手と呼ばれる楽曲はこの頃から始まる。
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