戦後の一茶研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)
戦後の一茶研究については、まず後述する一茶地元の柏原の「俳諧寺一茶保存会」、俳人栗生純夫主催の俳句誌「科野」、信濃教育会の活動が牽引した。昭和21年(1946年)創刊の「科野」では、毎年のように一茶特集号を組み、全国各地の一茶研究家の論文を掲載するなどの一茶研究を進めるとともに、「まん六の春」、「一茶翁終焉記」といった新資料の発掘を行った。信濃教育会は昭和27年(1952年)、雑誌「信濃教育」2月号を一茶特集とし、翌昭和28年(1953年)には全国の一茶研究者を集めて一茶研究の講座を開催した。そして信濃教育会は昭和53年(1978年)に全9巻の「一茶全集」の刊行に漕ぎつける。 戦後はまた、これまで注目されていなかった連句の研究や、北信濃、房総などといった一茶と各地域との関係性の研究、そして文学方面ばかりではなく、歴史学からの一茶研究など、様々な形の一茶研究が進んだ。そして藤沢周平、井上ひさし、田辺聖子といった作家が、それぞれの見方から一茶を描いた小説を発表している。 一方、一茶像については、戦後になると昭和10年代に見られた国家主義的なものは影をひそめ、変わって例えば俗人、煩悩人一茶としての一茶像が提唱されるようになった。これらの一茶像は大正デモクラシーの影響を受けて比較的自由主義的な風潮があり、自然主義文学が盛んであった大正期に唱えられた一茶像へ戻ったともいえる。その他にも、野人一茶、農民気質を持った俳人などといった一茶像が描かれたが、それらもまた基本的に戦前までに唱えられてきたものの延長線上にあり、一茶の研究史から見てとりたてて新たな一茶像が見出されたわけではない。ただしバラエティに富む一茶像の中で、時代や社会背景の変化に伴って注目される点が異なってきていることは明らかである。 今後の一茶研究の課題としては、まず蕪村などよりも進んでいるとされる伝記面の研究に対して、作品研究が立ち遅れているとの指摘がある。中でも個々の作品、著作についての研究の深化とともに、遅れが目立つとされている連句の研究を進めていくこと、一茶が俳壇に身を投じた天明期から亡くなる文政期までの俳壇における位置づけの確認などといった課題が挙げられている。また一茶の資料的なものはほぼ出揃った感がある中で、学際的な研究を進めていって、文学的方面ばかりではなく、より広い視野から一茶の実像を見直していくことが求められているとされている。
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