戦後のルドゥ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 03:01 UTC 版)
「ルドゥ・ドゥ・アマー」の記事における「戦後のルドゥ」の解説
大戦末期の1945年にウ・フラはアマーを副編集長として『ルドゥ・ジャーナル』(Ludu Journal、လူထုဂျာနယ်、Ludu はビルマ語で「人々/大衆」の意)と題した隔週の論文誌を創刊した。翌年には『ルドゥ日報』(Ludu Daily)の発刊に成功し、その後はルドゥ・ウ・フラおよびルドゥ・ドゥ・アマーとして知られるようになった。彼らの鋭い政治的論評と分析は、国家の独立への憧れと、植民地支配に対する統一された闘争に大きく貢献した。彼らの出版物にはアルコール、性的能力を強化するための薬物やギャンブルの広告や、競馬のコツ、凶悪な事件、ゴシップなどは掲載されていなかった。ウー・フラは新聞の存続のために映画の広告を例外とするよう説得されることになった。 しかしながら、ビルマがイギリスからの独立を勝ち取った直後の1948年のある朝、ルドゥ夫妻が共産主義者のシンパのように見えることから、マンダレーのキープワ・ヤイ紙は政府軍によってダイナマイトで瓦礫にされた。この時期、政権交代が頻繁に起こり、都市がカレン族の反政府勢力、共産主義者、ウー・ヌが指導する新しい社会主義政府の手に落ちていた。二人の妊婦を含む家族全員が路上に放り出され、列に並ばされて銃殺されようとしていた時に、多くの僧侶や、地元の人々が彼らの命をすくために介入することに成功した。 1953年にアマーはコペンハーゲンの国際民主婦人会議、ブダペストの世界平和評議会、ブカレストの第4回世界青年学生祭典に参加するために渡航した。1953年10月にウー・フラは反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)のウー・ヌ政権によって、新聞に物議を醸したニュースを掲載したことをきっかけに第5条に基づいて投獄され、1957年1月に釈放されるまでの3年以上をラングーンの中央拘置所で過ごした。その頃には5人の子供がいたが、末っ子のナイイン・チャン(Nyein Chan、ビルマ語で「平和」の意、ペンネームはニー・プー・レイ、1952年生)はようやく幼児期に達していた。1959年3月に新聞は当局によって閉鎖され、翌年5月まで再発行できなかった。アマーは1962年にアエロフロート・ロシア航空の招待客としてモスクワを訪れ、東ドイツ、チェコスロバキア、中国を訪問した。ウー・フラとドゥ・アマーはビルマ語を学ぶ留学生だけでなく、ミャンマー人の作家、ジャーナリスト、芸術家たちによく知られており、若い世代の新進作家や芸術家たちは彼らを 'U-Lay' (おじさん)と 'Daw Daw' (おばさん)と呼んでいた。マンダレーの84番通りと33番通りにある彼らの家、Ludu Taik(ルドゥの家)はそのような訪問者に常に開放されており、マンダレーでの最初の寄港地になっていた。
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