反ファシスト人民自由連盟とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 組織・団体 > 政治組織 > 政党 > ミャンマーの政党 > 反ファシスト人民自由連盟の意味・解説 

反ファシスト人民自由連盟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/03 16:05 UTC 版)

ビルマ連邦政党
反ファシスト人民自由連盟
ဖက်ဆစ်ဆန့်ကျင်ရေး ပြည်သူ့လွတ်လပ်ရေး အဖွဲ့ချုပ်
総裁 ウー・ヌ
成立年月日 1945年3月1日
解散年月日 1958年6月
政治的思想・立場 反ファシズム
民主社会主義
左翼
公式カラー  
テンプレートを表示

反ファシスト人民自由連盟(はんファシストじんみんじゆうれんめい、英語: Anti-Fascist People's Freedom League; AFPFLビルマ語: ဖက်ဆစ်ဆန့်ကျင်ရေး ပြည်သူ့လွတ်လပ်ရေး အဖွဲ့ချုပ်、パサパラとも)は、1945年から1962年までの間ビルマ(現ミャンマー)に存在した政党

著名なミャンマー学者・デヴィッド・I・スタインバーグ英語版の言葉を借りれば、「(欧米的な政党というよりも、むしろ)いくつかの政治党派と地方実力者たちと政治的影響力のある者の緩い連合体で、その構成員は左派から中道左派のすべてを含む何らかの社会主義者だった。さらに重要な点は、APPFLは権力を私的に体現する人々の幅広い集まりで、各指導者が自分の権力基盤と取り巻きと、ときには武装した支持者をともなっていた」ものだった[1]

結成

AFO参加組織[2]
組織名
政治組織 CPB、PRP、マハー・バマー党[注釈 1]

フェビアン党、タキン党[注釈 2]、ミョウチッ党[注釈 3]

非政治組織 BNA、作家協会、僧侶連盟、婦人連盟、教師連盟、

東亜青年連盟

民族組織 アラカン民族会議、カレン中央機構、シャン連合

ミャンマー独立の約束を反故にした日本軍に憤っていたアウンサン[注釈 4]率いるビルマ国民軍(BNA)、ビルマ共産党(CPB)、人民革命党(PRP、ビルマ社会党英語版[注釈 5])などミャンマーの民族主義者たちは、虎視眈々と反撃の機会を窺っていた。そして、インパール作戦の失敗により日本軍の劣勢が決定的となった1944年8月、アウンサンらは抗日闘争に勝機ありと見て、反ファシスト機構(Anti-Fascist Organization:AFO)を結成した。これは、BNA、CPB、PRPを中心に、バーモウ[注釈 6]以外のすべての民主主義者、学生、労働者、農民、地主、資産家、僧侶の代表が参加した統一組織[注釈 7]であり、当時国防大臣だったアウンサンが議長、のちにCPB議長となるタキン・タントゥン[注釈 8]が書記長、当時CPB書記長だったタキン・ソーが政治顧問に選出された[注釈 9][3][4][5][6]


結成時、AFOは『ファシスト日本の略奪者を放逐せよ』と題する宣言文を発表した[7]。その内容は激しい反日と穏健な社会主義的主張で、協力を予定していた連合軍に配慮して、日本軍放逐後の政権構想については言及していなかった[8]

われわれビルマの人民は、いまや日本のファシストの鉄のかかとのもとに苦しんでいる。われわれの家庭の平和と安全は、たえまない危険にさらされている。われわれは、毎日のように日本の憲兵隊、日本の兵士、日本の商人、そしてかれらの手先によって虐待されている。われわれの財産は没収され、われわれはそれぞれの家庭から追い出されている。神聖なわれわれの聖地は、日ごとに侵されつつある。立派な人たちが、罪人とまるでかわらぬ扱いをうけている。婦人たちの貞節さは、犯されている。われわれの食糧は、日本人に略奪されている。わが国の産物は、なんの価値もない日本の通貨と交換されている。われわれの牛や家畜、われわれの自動車や荷車は徹発されている。わが同胞は、過酷な労働に徴発され、われわれの境遇は、畜生よりもひどいものである。

抗日闘争

連合軍との協力

タキン・テインペー(ウー・テインペーミン)

連合軍との協力は、テインペー[注釈 10]、ティンシュウエィの2人のCPB党員が担当した。1942年6月、2人はインドのコルカタに脱出してイギリス側と接触。彼らの抗日思想を本物と了解したイギリスは、協力を約束した。特殊作戦執行部(SOE)およびその傘下の136部隊英語版カレン族カチン族チン族兵士を編成して上ビルマの辺境地域では活動していたが、下ビルマは手薄だったので、ラカインエーヤワディー・デルタ地帯で活動していたCPBの2人には利用価値があった[9]

イギリスの協力を得たテインペーは『ビルマで何が起きたか』という英文パンフレットを発行し、1943年1月に2人で重慶を訪問した際、密かに周恩来ら中国共産党関係者と接触し、その経験を元に今度は『抗日ゲリラ闘争の一般的諸問題』という英文パンフレットを著した後者は密かにミャンマーに持ち込まれ、BNAの教科書として使用された[9]。また1944年10月~12月、2人を頼って40人以上の若者がインドへ脱出し、コルカタ近郊で軍事訓練を受けてパラシュート部隊に編成され、準備段階および抗日蜂起後、ミャンマー国内の抗日拠点にメッセージを携えて送りこまれたり、空中から兵器を投下したりした。さらに日本軍が結成したラカイン族からなるアラカン防衛軍(ADA)やチン族からなるチン防衛軍(CDA)とも密かに協力関係を築いた[9]

このようにテインペーとティンシュウエィは、136部隊、SOE、ひいてはルイス・マウントバッテン卿が最高司令官を務める東南アジア連合軍(SEAC)とは協力関係を築くことができたが、レジナルド・ドーマン=スミス英語版総督率いるシムラー亡命政権は、日本軍と協力したアウンサンらを裏切り者と見なし、AFPFLに対して不信感を抱いたままであった[9]

いずれにしろ、抗日蜂起の準備段階では、イギリスとの連絡を独占していたCPBが主役であり、AFPFL内での発言力を高めた。当初、せっかく育て上げた国軍を無謀な戦いに投じるわけにはいかないと、抗日蜂起に慎重だったアウンサンも、CPBのこのような動きを察知して、抗日蜂起の準備を加速させていった[9]

抗日蜂起

抗日蜂起の際に設定された軍管区[10]
地域 軍司令官 政治顧問
第1軍管区 ピイヘンザダインセインターヤーワディー英語版 アウンサン タキン・バーヘイン英語版(CPB)
第2軍管区 ピャーポンエーヤワディー・デルタ東部 ネ・ウィン タキン・ソー(CPB)
第3軍管区 エーヤワディー・デルタ西部 ソー・チャードウ英語版(カレン族)
第4軍管区 タウングー南部、ハンタワディ チョーゾー(30人の同志) タキン・チッ(CPB)
第5軍管区 ダウェイミェイク ティントゥン タキン・バーテインティン英語版(CPB)
第6軍管区 ピンマナメイッティーラ ボー・イェトゥッ(30人の同志) タキン・チョーニェイン英語版(PRP)
第7軍管区 タイェ英語版- ミンブー ボー・ムアウン英語版(30人の同志) タキン・ティンミャ英語版(CPB)
第8軍管区 上ビルマ ボー・バトゥー

来たるべき抗日蜂起に向けて、AFOは『抗日ゲリラ闘争の一般的諸問題』に則り、国土を8つの軍管区[注釈 11]に分割、主にBNA[注釈 12]のメンバーが軍司令官を担当し、CPB、PRPのメンバーが政治顧問を担当した。またミャウンミャ事件で亀裂が生じていたカレン族との融和を図るために、カレン族の多い第3軍区の軍司令官にカレン族のソー・チャードウを任命し、カレン族だけからなるカレン大隊を1個結成した[11]。そして1945年3月27日、アウンサンは日本軍への全面攻撃を開始、しかし経験にも兵器にも乏しい彼らができたことと言えば、せいぜい敗走する日本兵への待ち伏せ攻撃、村で住む日本兵への闇討ち、倉庫や武器庫への襲撃くらいで、現地の村民をゲリラに組織する計画も上手くいかず、連合軍との連携もその場しのぎだった[12]。いずれにせよ、同年5月1日、ヤンゴンは解放され、数か月後、日本軍はビルマから完全撤退した[13]。ヤンゴン奪還後、AFOは反ファシスト人民自由連盟(Anti-Fascist People's Freedom League:AFPFL)に改名した[14]

独立闘争

植民地体制復活の失敗

日本軍を放逐したイギリス政府は、1945年5月17日、以下のような内容の『ビルマ白書』を発表し、戦後の対ミャンマー政策を明らかにした[15]

  1. ミャンマーが英連邦内で完全な自治政府としての責務を果たし、自治領としてイギリス政府と同等の地位を獲得する日まで、ミャンマーの政治的発展を支援することがイギリス政府の目的である。
  2. ミャンマーの自治政府を目指した発展は、日本軍の侵入により挫折し、行政組織確立の基礎となるべき社会・経済生活も崩壊した。かかる基礎が再建されるまで、戦前の政治制度(ビルマ国)を復活させるべきではない。
  3. したがって、1935年ビルマ統治法第139条にもとづく総督の直轄統治を、1948年12月19日まで3年間継続する。その後、戦前の政治制度を復活する。
  4. 最終的には、管区ビルマに英連邦内の自治政府を樹立する。シャン州など少数民族居住区は、管区ビルマとの併合を希望するまで、総督の直轄統治下に置く。
レジナルド・ドーマン=スミス

しかし白書の内容は、完全独立を求めるAFPFLには絶対に受け容れられないものであり、1945年8月16日~18日、チャーチルロードにあるAFPFL本部で開催されたネイトゥイエン(Naythuyein)会議[注釈 13]という大衆会議において、AFPFLは、自治領でも英連邦領でもなく、即時の完全独立とBND改めビルマ愛国軍(PBF)が軍隊として存続することを求める決議を行った。この決議を確認する8月19日のAFPFL支持者の集会には、5~6,000人もの人々が集まったのだという。アウンサンは独立の英雄視され、AFPFLの人気は最高潮に達していた[16]。イギリス当局も、このAFPFL人気を無視できず、同年9月6日~7日にスリランカのキャンディで、SEAC、AFPFL、そしてドーマン=スミスが支援するイギリス民政局(the British Civil Affairs Service:CAS[B])による会議を開催し、PBFと英植民地軍を統合して新生ミャンマー軍(以下、国軍)を結成することを決定[注釈 14]、まず軍事面においてAFPFLに対する一定の譲歩がなされた[17]

1945年10月16日、ようやくドーマン=スミスはヤンゴンに帰還したが、3年半ミャンマーから離れていた彼以下元英植民地政府関係者やミャンマー人政治家は、当初、アウンサンやAFPFLの国民的支持を理解しておらず、彼らのことを「烏合の衆」「馬鹿者」と軽んじていた。しかし徐々に無視できない存在と認識するに至り、新たに組織する行政参事会(Exercutive Council)[注釈 15]にAFPFLのメンバーを迎え入れることで妥協案を探ったが、AFPFLが行政参事会の定員15人のうち11人を求めるなど無理難題を吹っかけてきて交渉は決裂した[18]。ドーマン=スミスはミャンマーの復興に取り組むとともに、AFPFLの弱体化を図り、1946年3月には、行政参事会のメンバーで、タキン党でアウンサンと対立していたタキン・トゥンオウが、戦中にアウンサンがモーラミャイン近郊の村でムスリムの村長を処刑した事実を告発[注釈 16]。イギリス当局は、この件でアウンサンを逮捕しようと試みたが、結局、断念した[19]。5月18日にはインセイン郡区タンタビン英語版で、アウンサンの私兵団・人民義勇軍(PVO)の指導者11人が逮捕されたことに抗議する1,000人以上のデモ隊に警察が発砲し、少なくとも3人が死亡、6人が重傷を負い、40人が負傷する事件が起き、全国で何百人ものPVOのメンバーが逮捕された。AFPFLはこの事件に強く抗議して、PVOメンバーを釈放させるとともに、全国で公務員や労働者を扇動して大規模なストライキを決行[20]。結局、事態を収拾できなくなったドーマン=スミスは同年6月に解任され、ヒューバート・ランス英語版が後任となった。帰国時、ドーマン=スミスはアウンサンの偉大さをしみじみ噛み締めたのだという[注釈 17][21][22]

独立交渉

ヒューバート・ランス

同年8月に着任した新総督のヒューバート・ランスは、過去に英植民地政府での勤務歴があり、アウンサンとも昵懇の仲だった。しかしランスが着任を好機と捉えたAFPFLは、同月に発生した警察官によるストライキ[注釈 18]を全国に拡大して圧力を強め、結果、新たに組織された定員9人の行政参事会にAFPFLのメンバーを6人送りこむことに成功した。アウンサンは国防大臣、外務大臣、議長代理を兼任した。1947年1月27日、ロンドンでアウンサン=アトリー協定が結ばれ、「管区ビルマと辺境地域を統合した1年以内のビルマの独立」が確認された。その際、前提条件として「パンロン会議」「辺境地域調査委員会」「制憲議会選挙」「制憲議会」という4つの場が設定された[注釈 19][23][24]

「1年以内のビルマの独立」という文言は、英連邦内の自治領に留まるとも、完全独立を認めるとも読める条項で、アウンサンも散々迷った挙げ句、結局、後者を選択した。同年2月には第二次パンロン会議を開催し、カチン州、シャン州、カレンニー州、チン特別区の設置とシャン州、カレンニー州の10年後の連符離脱権を認めることを条件に、全ミャンマーが1つの連邦国家として独立することについて各民族の代表の快諾を得た。しかし、ミャンマー最大の少数民族・カレン族は州の設置さえ認められず禍根を残した[23][注釈 20]

一方、AFPFLは国内の反対勢力にも対峙を迫られていた。1つは、ウー・ソオ、バーモウなどの戦前政治家、タキン・バーセイン[注釈 21]、タキン・トゥンオクなどの元タキン党少数派で、彼らは年下のアウンサンに従うことをよしとせず、行政参事会のメンバーとして、アウンサン=アトリー協定を締結するためにロンドンに同行したウー・ソオとタキン・バセインは協定への署名を拒否し、1947年3月には行政参事会を辞任した。もう1つはCPBで、まず1946年3月、路線対立が原因でタキン・ソーがCPBを離脱して赤旗共産党を結成して地下に潜り、AFPFLからも除名された[25]。またタキン・ソーはCPBのタキン・テインペーが行政参事会のメンバーであることを「日和見主義」と批判し、CPBもこれを受け入れてタキン・テインペーを辞任させた後、AFPFLとアウンサンを激しく批判し始め、同年10月10日、CPBもAFPFLから除名された[26]

パンロン協定に署名するアウンサン。

1947年4月には、制憲議会選挙英語版が実施されたが、ウー・ソオのミョウチッ党、バーモウのマハー・バマー党、バーセイン‐トゥンオクの新タキン党、カレン族を代表する政治組織・カレン民族同盟(KNU)は選挙をボイコットし、CPBは参加したが、アウンサンの国民的人気は圧倒的で、AFPFLが182議席中171議席を獲得して大勝した[注釈 22][27]。同年5月18日、第2回AFPFL全国大会がヤンゴンで開催されたが、この時点でAFPFLの実力者は、アウンサン、タキン・ミャ英語版[注釈 23]、ウー・ヌの3人で、これにCPBが抜けたことにより社会党系の議員が加わった。しかし、1947年7月19日、アウンサンとタキン・ミャは、行政参事会の他の5人の閣僚とともに暗殺された。犯人はウー・ソオだった。代わりにウー・ヌが首相に就任し、同年10月、ウー・ヌはイギリスに赴いてヌ・アトリー協定を締結し、1948年1月4日、ミャンマーは「ビルマ連邦」として独立を果たした[28]

AFPFL政権の性格

ウー・ヌ

社会主義政権

1948年に施行された憲法[29]は、ケンブリッジ大学で法律を学んだミャンマーの法曹エリートたちが起草したもので、ユーゴスラビアの1946年憲法、アイルランド憲法、合衆国憲法、フランスの1946年憲法、そしてイギリスの慣習法を参考にしつつ、わずか15週間で書き上げたものだった[30]。その内容は、1947年5月の憲法草案審議予備会議で、アウンサンがミャンマーの経済政策について「林業、鉱業、電力、鉄道、航空、郵便、電信、電話、放送、外国貿易を国有化し、地主制度を廃止する。その他の生産手段は、できる限り共同組合所有とする」と述べ、1948年憲法の第23条で「公共の利益のために私有財産を国有化できる」、第30条で「国家がすべての土地の最終所有者である」、第42条で「国家が私的利益を追求しない経済団体に物的支援を与える」という規定があることからもわかるとおり、国家社会主義色の濃いものだった[31]

1953年8月には、反乱の鎮圧のために全国を飛び回って各地で国民の意見に耳を傾けた経験を元に、ウー・ヌは、アメリカのエンジニア・コンサルティング会社・ナッペン・ティペッツ・アベット(Knappen Tippets Abbett)、鉱山エンジニアリング会社、経済コンサルティング会社と契約し、国際開発庁(USAID)の前身・技術協力局 (TCA)の資金援助を得て、1.地方政府への権限委譲、2.健康、3.教育、4.経済、5.耕作地の国有化、6.交通、7.福祉、8.民主的な地方議会、9.辺境・未開発地域の開発、10.再建の10項目からなる2巻800ページに及ぶ『包括的報告書:ビルマの経済と工学の発展』というレポートを作成。これにもとづいて8年半で国民総生産(GDP)の90%上昇を目標とするピードーター(新生活の創造)計画の実施を開始した。これは戦後の脱植民地化の時期、開発途上国が採用した最初の経済開発計画の1つであり、のちに他の国々のモデルとなった[32][33]

ただ、この計画にもとづき、ビタミン剤を供給するために製薬工場を設立したり、ビルマ翻訳協会が翻訳書籍を配布したりしたもの、後述する4つの原因により、計画の大半は実行に移されなかった。例えば、ドイツの支援でビルマ中部に残っていた戦災残骸から豊富に産出されるスクラップ鉄を原料とする製鉄所を建設したが、マンダレーからヤンゴンへ輸送コストは、ロンドンからヤンゴンへの輸送コストよりも高く、採算が合わなかった。また、輸出入ライセンスはミャンマー国民に限定されていたが、名目上はミャンマー人の社長を擁しつつ、実際には中国人が所有・運営していることが多かった。農業生産増大に向けた努力がなされたものの、短期融資が不十分で、肥料は高価で供給不足、灌漑は主にモンスーンの不作による経済的破綻を防ぐための手段になっていた。すべての土地が国有だったため、農民には耕作地のインフラ整備に投資するインセンティブがなかったのだ[34]。役人の腐敗と無能に幻滅したウー・ヌは徐々に国家社会主義的な方針を転換し、1959年9月にビルマ連邦投資法を制定して外資の導入を奨励し始めたが、国有化リスクのために外資の投資は伸びなかった[35]

ピドーター計画は、1957/58年の予算危機で大きく軌道から外れ始め、1958年9月にネ・ウィンの選挙管理内閣が成立した際に事実上終了した。計画に携わったアメリカ人・ルイス・ワリンスキーは、計画失敗の原因として、次の4つを挙げている[32]

  1. 武装勢力の反乱が長期化したこと。
  2. 1950年に朝鮮戦争が終了すると、当時のミャンマー最大の輸出品だった米の世界的需要が大幅に減少して米の価格が下落し、計画の資金に利用できる外貨が予想より大幅に減少したこと。
  3. 被援助国のミャンマーではなく、援助国の都合で物事が進められたこと。
  4. 国軍を関与させなかったので、彼らが権力を握ると興味を示さなかったこと。

そして、「(ピードーター計画によってもたらされた)平均的なビルマ人が、新たに獲得した独立から自動的に福祉と豊かさがもたらされると期待するこの素朴な傾向は、その後しばらくの間持続し、経済発展に対する大きな障害となった」と総括している[32]

ビルマ族中心

AFPFL政権は、大統領にシャン族のサオ・シュエタイッ[注釈 24]首相にビルマ族のウー・ヌ、国軍総司令官にカレン族のスミス・ダンを配置したミャンマーの全民族結集を装ってはいたが、その実、1948年憲法は中央集権的で、出世はミャンマーの独立に対する貢献度で計られ、結果、党幹部・閣僚のほとんどがビルマ族の実質ビルマ族政権といえ、各少数民族はその処遇に不満を抱いた[注釈 25]。また、カレン族の武装組織・カレン民族防衛機構(KNDO)が本格的に反乱を起こしたわずか4日後の、1949年1月30日にKNDOを非合法化したのに対し、1948年3月に反乱を開始したCPBが非合法化されたのは5年後の1953年だったことからもわかるとおり、AFPFLの少数民族に対する偏見も相当なものだった[36]。1949年2月から5月にかけてKNDOがインセイン郡区が占拠した際も、社会党のメンバーが、国軍の反乱者、人民義勇軍(PVO)、CPBと秘密裏に交渉してKNDOに対抗しようとしていた。つまりこれは、ビルマ族間の政治的対立よりも民族間対立のほうがより深刻であることの証左だった[37]

このようなことを背景に、独立直後からCPB、KNU/KNDO、国軍のカレン族兵士、国軍・PVOのCPBシンパ(白色PVO)が一斉に反乱を起こし、カレンニー州モン州でも小規模な武装組織が結成され、ラカイン州北部ではムスリムのムジャーヒディーンの乱が起きた[38]。この事態に対して、ウー・ヌは国軍総司令官のスミス・ダン以下カレン族の将校・兵士を全員解雇し[39]、後任にネ・ウィンを据えた。ネ・ウィンが最高司令官になった時点で、国軍兵士の半分が反乱を起こし、兵器の半分が失われ、反乱軍が計3万人以上の兵力だったのに対し、国軍はわずか2千人の兵力しかなく、国土の75%が反乱軍の手に落ちていた[40][41]。ウー・ヌ政権はラングーン周辺の半径10km以内のみを実効支配するだけで、ビルマ政府ならぬ「ラングーン政府」と揶揄された[42]。ネ・ウィンは、カレン族将校、親英派、不忠者などを排除し[43]シッウンダンという民兵組織を各地で組織し[44][45]、カチン・ライフル部隊を3個大隊から6個大隊に増設して、新たにシャン・ライフル部隊とカレンニー・ライフル部隊を設置するなど軍拡に努め[46]、イギリスとインドから兵器の提供を、オーストラリア、パキスタン、スリランカなどの英連邦諸国から600万ポンドの融資を受けて反撃に出、1950年代初頭までに各反乱軍を国境地帯に放逐[47]、1954年10月、ウー・ヌが「一時はビルマを飲み込みそうに見えた内戦は、もはや国家統一に対する脅威ではない」と述べるに至った[48]

非同盟・中立外交

1948年憲法では、第211条で「ビルマ連邦は国策遂行の手段として戦争を放棄し、外交関係を処理する行為の準則として、一般に承認された国際法の原則を受容する」と、第212条で「ビルマ連邦は、国際正義および道徳に基礎を置く国家間の平和および友好的協力の理想に貢献する」と規定されている。CIAと台湾の支援を受けた中国国民党軍泰緬孤軍)シャン州に陣取り、同じくCIAやタイ王国軍の支援を受けたKNUが泰緬国境地帯に陣取り、中国から好意的反応を受けていたCPBがペグー・ヨマやエーヤワディー・デルタ地帯に潜伏するなど、ややもすれば冷戦下の大国の争いに巻き込まれないところ、AFPFLは非同盟・中立の外交政策を貫き、難しい舵取りを迫られた。反乱軍に対抗する兵器や資金をイギリス、インド、英連邦諸国にしか頼れなかったのも、かかる理由からだった[49]

しかし、1950年代初頭に反乱をほぼ鎮圧すると、情勢が変化した。これまでソ連は東南アジアの共産主義勢力を少なくとも心理的には支援し、AFPFL含む東南アジアの政権を帝国主義の手先であるブルジョワジー政権と見なしていたが、そのブルジョワジー政権がことごとく共産主義勢力の鎮圧に成功すると評価を改めた。そして、1953年に朝鮮戦争が終結による米輸出量の減少、米価格下落でミャンマーが苦境に陥ると、中国のほか、ソ連ユーゴスラビアチェコスロバキア、ハンガリー、東ドイツ、ポーランド、ルーマニア、ブルガリアなどの東欧諸国が、バーター貿易方式でミャンマーの米を引き取ってくれた。1956年のソ連共産党第20回大会平和共存理論が採択され、資本主義国と共産主義国の共存の意思が表明されるとこの路線は加速。ウー・ヌも1954年以降、秘書を務めていたウ・タントを伴って外遊を活発に行い、1955年にはインドネシアのバンドンで開催された第1回アジア・アフリカ会議にも出席、また援助受け入れ先もアメリカ、ソ連、中国、日本、西ドイツ、インドと多角化していった。ウー・ヌのこのような尽力もあり、1950年代のミャンマーは国際社会で高い評価をエていた[50]

寡頭政治

AFPFLの組織図[51]

AFPFLの組織図は右図のようなものだった。加盟方法には個人加盟と組織加盟の2種類あり、最高議決機関として全国大会があり、全国大会の執行機関として最高委員会があった。最高委員会の250人の委員は地域支部と組織支部から選出され、最高委員会の中から、AFPFLの運営機関である中央執行委員会の15人の委員が選出された。そしてこの15人の中から総裁が選出され、総裁が中央執行委員会の委員の中から副総裁、書記長、財務局長を任命した[注釈 26][51]

1957年のAFPFLの支持基盤(計128万7,290人)[51]
組織名
組織加盟

(80万人)

全ビルマ農民機構(ABPO):55万人50人
ビルマ労働組合会議(TUCB):6万584人
職業組合連合:10万243人
カレン連盟:3万1,669人
ビルマ婦人自由連盟:5万7,454人
個人加盟

(48万7,290人)

上ビルマ:12万8,181人
中ビルマ:19万9,309人
下ビルマ:13万126人
少数民族州:2万9,674人

しかし全国大会は1947年に開催されたきりしばらく開催されず、最高委員会・全国大会は形骸化し、同年に選出された中央執行委員会の15人のメンバーがその後改選されることもなく権力を握り続けた。また中央執行委員会[注釈 27]の決定は内閣の閣議決定より優先され、さらに大統領は名目上の存在であり、連邦議会はAFPFLが圧倒的多数を占め、内閣の閣僚もほぼ全員AFPFL議員だった[注釈 28][注釈 29][52]。そのためAFPFLの中央執行委員会が実質国家の最高意思決定機関となり、なかんずくウー・ヌ、バースエ、チョーニェイン英語版、タキン・ティンの4人が傑出した存在だった[53]

このうちウー・ヌ以外の3人[注釈 30]は社会党所属である。1946年にCPBがAFPFLから除名されて以降、社会党がAFPFLの最大勢力で[注釈 31][注釈 32]、いわゆる幹部政党であり党員は少なかったが、全ビルマ農民機構(ABPO)、ビルマ労働組合会議(TUCB)という大規模な支持基盤を有しており、AFPFL中央執行委員会の過半、AFPFL議員の60%を占め、内務大臣の職を独占して連邦警察(UWP)を支配下に置いていた。ただしABPOはタキン・ティン(Thakin Tin)の、TUCBはウー・バースエやボー・セッチャー(Bo Seca)の個人支持基盤という性格が強かった[51]。4人の人間関係は微妙なものだったが、ウー・ヌが保健、社会福祉、教育、宗教、バースエが鉱山開発と国防、チョーニェインが産業化・電力資源開発、タキン・ティンが農業育成・土地国有化とお互いの担当分野を決め、お互いに侵害しないことによってなんとか関係を維持していた[54]

ただAFPFLの地方組織は脆弱であり、組織拡大を焦るあまり政治家としての適性を欠く元BNA兵士・元PVO兵士を多数採用したばかりに、彼らは地方のボス化した。またAFPFLは地方の治安維持を目的としてピューソーティーを組織したが、彼らが地方のボスたちの私兵化して、さらにAFPFLの地方組織の悪質化を招いた[51]

分裂、そしてクーデター

AFPFL分裂

1人当りのGDP(1985年のUSドルベース)[55]
1950-54 1960-64 1985-89
ミャンマー 245 361 556
インド 617 800 1,142
フィリピン 896 1,204 1,627
タイ 804 1,027 2,790
台湾 967 1,387 6,708
中国 487 1,283
インドネシア 583 1,688
マレーシア 1,544 4,082
シンガポール 1,899 9,578

1950年初頭までに内戦は一段落したが、大戦、内戦と続いて国土は荒廃しきっていた。全国に避難民が溢れ、粗末な仮設小屋に住んでいた。英植民地時代の鉱山、製材所、油井はほとんど閉鎖され、かつて年間300万トンあった米の輸出量は100万トン以下にまで激減。右図からも明らかなように経済状態は「経済的悪夢[56]」と称されるほどのどん底にあり、東南アジア最低レベルにまで落ちこみ、多くの人々が雑用をしたり、物を売ったりして、かろうじて生計を立てている状態だった。独立時、最悪レベルだった治安もさらに悪化し、地方は無政府状態で、通信は全域で途絶え、列車や汽船は盗賊団を警戒して重装備の警備隊を伴って運行され、地元有力者は自らの「ポケット軍隊」で自衛し、地元の治安を維持した。「独立時のミャンマーは東南アジアでもっとも豊かな国の1つだった[57]」という人口に膾炙している話は、歴代の軍政を批判して、過去に郷愁を求めるだけの、はなはだ誇張された話にすぎなかった[52]

バースエ

このような状況下で、政治も安定しなかった。1951年から1952年にかけて実施された第1回総選挙英語版で、AFPFLが250議席中199議席を獲得して圧勝した。しかし1956年に実施された第2回総選挙英語版では、AFPFL系議員は250議席中173議席に留まり、社会党から分裂したビルマ労農党英語版(BWPP)を母体とする左翼系諸派連合で、CPBはじめ各反乱軍とも関係が深いとされる国民統一戦線英語版(NUF)が47議席を獲得して躍進した。同年6月、ウー・ヌはAFPFL総裁の座には留まり続けたものの、首相を辞任、バースエを首班とする社会党内閣が成立した。しかし同年末、ウー・ヌに首相復帰を断念させる社会党の陰謀が発覚。大学派と呼ばれるインテリのバースエ、チョーニェインとは社会党内でも一線を画していた、寺子屋派のタキン・ティンとタキン・チョードン(Thakin Cho Dun)[58]からその旨の報告を受けたウー・ヌは激怒し、予定よりも3か月早い1957年3月に首相に復帰した[注釈 33][59]

1958年1月末には10年ぶりに第3回AFPFL全国大会で開催されたが、その際、書記長をめぐる人事でタキン・ティンを推したウー・ヌと他の者を推したチョーニェインが対立。また第3回全国大会の採択にもとづいて同年4月にAFPFL青年機構が設立され、チョーニェインが会長に任命されたが、組織作り段でチョーニェインはタキン・ティンのABPOの縄張りを荒らし、あまつさえABPOのメンバーをリクルートし始めた。激怒したタキン・ティンは私兵団を強化し、全国各地でタキン・ティンとチョーニェインの私兵団が衝突するようになった。さらにウー・ヌは汚職摘発と公務員削減に乗り出したが、これはチョーニェインの目には社会党潰しに映った。4月20日、ウー・ヌとバースエはモーラミャインで会談したが解決には至らず、2日後の4月22日ウー・ヌはAFPFLを2つに分裂する決定を下した[60]

1958年6月9日の内閣不信任案の票決
不信任案賛成 不信任案反対
AFPFL 97 51
NUF 1 44
ANUO[注釈 34] 0 6
シャン州 9 16
カチン州 4 3
カレンニー州 0 2
カレン州 5 2
119 127

6月5日に臨時国会を召集する決定がなされたが、国会が召集されるまでの間、お互いに激しい中傷・誹謗合戦、私兵団同士の衝突が生じた。そして6月9日、召集された臨時国会でバースエ/ニェイン派が提出した内閣不信任案が票決に付された。この議会にはアメリカ、イギリス、中国、ソ連の大使が一堂に会し、ミャンマー史上始めてその模様がラジオで生中継され、国民もラジオの前で固唾を飲んで見守った。結果は127対119、わずか8票差で不信任案は否決された。ヌ/ティン派の勝因はNUFを味方に付け、さらにラカイン州の設置とシャン州およびカレンニー州の自治権を大幅に認めることを匂わせて、ラカイン族シャン族カレンニー族の議員も抱きこんだことにあった。この後、AFPFLは、バースエ/ニェインの安定AFPFLとヌ/ティンの清潔AFPFLに正式に分裂し、11月に予定されていた総選挙で激突することになった[61]

ネ・ウィン選挙管理内閣

臨時国会後、ウー・ヌは清潔AFPFL挙党内閣を結成したが、内閣不信任案決議で貸しを作ったNUFの議員は1人も入閣させなかった。その代わり、ウー・ヌは「民主主義のための武器」と呼んだ全反乱軍に対する恩赦を発布し、これに応じて白色PVOの兵士700人、モン州の設置を要求していたモン人民戦線の兵士1,000人が投降した。CPBは投降しなかったが、この機会を奇貨としてCPB軍を国軍に編入すること、内閣にCPB党員を加えることなど無理難題を要求したが、ウー・ヌは拒否した。また上ビルマ視察中のヌは欠席した9月1日に開催された清潔AFPFL全国大会の席で、ボー・ミンガウン(Bo Min Gaun)内務大臣が「国軍は全人民の敵ナンバー1」と発言し、国軍が猛然と反発、あとでヌが釈明に追われる事態となった[62]

そしてこの一連の動きに反発して、国軍北部軍管区司令官・アウンシュエがクーデターを計画。これを察知した政府は連邦軍警察、村落自衛団、森林警備隊をヤンゴン市内の各所に配置したが、9月22日、アウンシュエの名を受けたチーマウン大佐率いる部隊が、政府主要機関、閣僚や高級官僚の住宅が集まるウィンダミア(Windermere)居住区を包囲した[63]。一方、国軍の参謀本部と南部軍管区司令官はクーデターに反対しており、このままでは国軍と連邦軍警察の対決、ひいては国軍内の分裂は避けられない事態となった。さらに清潔AFPFLと安定AFPFLの私兵同士の衝突も全国各地で発生しており、治安が大幅に悪化していた。このような中、国軍幹部のアウンジー准将とマウンマウン博士が事態の収束に奔走し、結果、1959年4月に選挙を実施することを条件にウー・ヌがネ・ウィンに合法的に政権を移譲することで決着し、同年10月28日、ネ・ウィンが首相に就任し、ネ・ウィン選挙管理内閣が成立した。政権移譲は11月の選挙で勝ち目がないと見たウー・ヌが自主的に申し出たと伝えられる[64]

選挙管理内閣は物価引き下げ、行政改革、ヤンゴンの美化、シャン州やカレンニー州の伝統的首長の特権廃止、中国との国境画定などそれなりに業績を上げたが、ココ島の強制収容所建設、執拗な反共宣伝工作、メディア規制など国軍の統治はあまりにも急進的であったため国民には不評で、ネ・ウィンはこれ以上国軍の評判が傷つくのを嫌って、約束から少し遅れて政権を民政移管した[65]

クーデター

1960年2月、第4回総選挙英語版が実施され、「ファッショかデモクラシーか」のスローガンを掲げた清潔AFPFLが250議席中159議席を獲得して大勝し、安定AFPFLはわずか42議席で、バースエもチョーニェインも落選するという大惨敗を喫し、NUFは1議席も獲得できず壊滅した。清潔AFPFL大勝の原因は、ウー・ヌ個人の人気の高さ、仏教国教化の公約に対する多数派仏教徒の国民の支持、国軍の下級兵士が選挙を妨害しようとしたことへの国民の反発などがあったとされる。翌月、清潔AFPFLは連邦党と改名した。

ウー・ヌは新内閣発足と同時に、物価統制の撤廃、ヤンゴン市内の強制移住の停止、メディア規制の停止など選挙管理内閣の政策の中でも特に国民に不評だったものを撤廃して上々のスタートを切ったが、以下のような重要な課題を抱えていた[66]

  1. 限られた立法権と課税権、伝統的首長の特権廃止に不満を抱いたシャン族の初代大統領・サオ・シュエタイッらシャン州の元土侯たちは「真の連邦制」を求める運動を起こし、1961年6月、様々な民族のリーダーたちを集めてタウンジーで全州会議を開催した。その際、(1)ビルマ人のための「ビルマ州」の設置、(2)国会上院議席への各州の同数割当て(3)中央政府の権限を外交や国防などに限定することを要求し、そのための憲法改正を訴えた[67]。さらにパンロン協定で認められたシャン州、カチン州、カレンニー州の他、チン州、モン州、ラカイン州の設置を求める決議もなされ[注釈 35]、認められない場合、シャン州とカレンニー州はパンロン協定で認められた連邦離脱権を行使することをちらつかせた。苦境に陥ったウー・ヌは、1960年総選挙で公約していたモン州とラカイン州の設置を1962年9月までに実施せざるをえなくなった。
  2. 仏教の国教化を打ち出したウー・ヌは、他宗教の反発を抑えるために、イスラム教、キリスト教、ヒンズー教の指導者と会談して、それぞれの宗教の信仰の自由を保証し、キリスト教徒に対しては宗教を教える権利を保証する法律を制定した[注釈 36]。またネ・ウィン選挙管理内閣下で行われた中国との国境画定により、従来カチン州の領土とされていたピモー、ゴーラン、カンパン地方を中国に割譲した。この2つの事情が相まり、1961年2月、カチン独立軍(KIA)が反乱を起こした。
  3. 独立運動に貢献をしたタキン派と法律家、官僚出身者が多いウー・ヌ派との派閥抗争[68]

この時期のKIAの反乱は小規模なものだったが、「真の連邦制」は国軍の目には連邦分裂をもたらしかねない危険思想と映っていたようだ。そして、このような国家危機を前にしても、汚職に塗れ、民族やイデオロギーで対立し、連邦統一を危機に晒す政治家たちの姿に国軍は幻滅し、民主主義、ひいては国民に対する不信感を募らせていた[69]。当時、国軍ナンバー2だったアウンジー准将は「独立から12年が経ったが、政治家たちは何を与えてくれたのか。いまだに針1本さえ作れない。このままでは、遅かれ早かれ国は破滅するだろう」と述べたと伝えられる[70]。そして1962年3月2日、ネ・ウィンはクーデターを決行し、ウー・ヌ以下各閣僚、ヤンゴンで開催されていた連邦セミナーに出席していたシャン州とカレンニー州の議員たちを拘束した[71]

解党

クーデターの2日後の3月4日、ネ・ウィンは、連邦党、安定AFPFL、NDFの代表と会談して統一戦線を築こうとしたが、結局、交渉は決裂。7月4日、独自の政党であるビルマ社会主義計画党(BSPP)が設立され、ネウィンが議長に就任した。1964年3月28日には国家統一法が施行され、BSPP以外の政党・政治団体の活動が禁止され、AFPFLは解党処分となった[72]

AFPFL関係者の中には、のちにウー・ヌの議会制民主主義党(PDP)に参加した者もいた。

また8888民主化運動の際、予定されていた総選挙に参加するために、チョーニェインの娘・ドーチョーチョーニェインがビルマ連邦(主流)AFPFL本部(Union of Burma《Main》AFPFL《Hq.》)という政党を結成したが、チョーチョーニェインが逮捕されて、瓦解した[73]。他にもこの時期、AFPFL、元祖AFPFL(AFPFL《Original》)、、AFPFL(元祖、ビルマ、本部)(Youth Organization of AFPFL《Original》《Burma》《Hq.》)、主流AFPFL青年本部(《Main》AFPFL Youth Hq.)といったAFPFLを名乗った政党が現れたが、1990年総選挙で当選者を出した政党は1つもなかった[74]

脚注

注釈

  1. ^ バーモウの貧民党が発展解消して結成された組織。
  2. ^ タキン党の少数派派閥、バーセイン‐トゥンオク派。
  3. ^ ウー・ソオの政党
  4. ^ とはいえ、アウンサンはビルマ国の国防大臣を務めていた。
  5. ^ 1945年9月1日に結成。
  6. ^ 彼やウー・ヌもこの動きを察知していたが、日本軍に密告することはなかった。
  7. ^ 個人加盟と組織加盟の両方が可能だった。
  8. ^ アウンサンの妻ドー・キンチーの妹ドー・キンキンジーと結婚していた。
  9. ^ 独立の父アウンサンビルマ共産党議長タキン・タントゥン(英語版)、独立後の議会制民主主義時代の大半首相を務めたウー・ヌ国連事務総長となったウ・タント、そして国軍総司令官・革命評議会議長・ビルマ社会主義計画党議長ネ・ウィンなど、独立闘争で活躍した人々、その後議会制民主主義時代に国軍将校、政府の大臣、野党政治家、反政府武装勢力のリーダーになった者のほとんどが、同時期にヤンゴン大学(英語版)に在籍していた。当時のミャンマー人最高レベルのエリートは学費の高い寄宿学校からヤンゴン大学に進み、弁護士、判事、大学教師、公務員になった。しかし、アウンサンらは成功した商店主・経営者などアッパーミドルクラスの家庭出身だった。タンミンウー(英語版)は、「ビルマの政治は1920年代、30年代に育った一握りの男性によって独占されていた...20世紀のビルマの歴史は、太平洋戦争前の暗黒時代に、友人同士であったり、少なくとも同時期に大学に通っていたりする男性グループ(そしてごく少数の女性)の歴史として語ることができる」と評している。
  10. ^ インド共産党とタキン党のメンバーの間を取り持ち、CPBを創設された人物である。
  11. ^ 他にヤンゴン軍管区があったが、名目的なものに留まり、アラカン軍管区は既に1945年1月に蜂起していた。
  12. ^ 皮肉にも対日蜂起直前に日本軍はBNAにゲリラ戦術の軍事訓練を施していた。
  13. ^ 第1回AFPFL全国大会とも呼ばれる。
  14. ^ しかし、定員1万2,000人の国軍に採用されたPBF兵士はわずか5,200人であり、残りは人民義勇軍(PVO)というAFPFLの私兵組織に再編された。
  15. ^ 内閣のこと。
  16. ^ 村長の未亡人によると、アウンサンは村長を故意に辱めた後、公衆の面前で銃剣で殺害した。アウンサンは殺害を否定しなかったが、刀で切りつけたものの最後までやり遂げることができず、部下の一人が仕留めたと述べた。アウンサンは自分がこの命令を下したことは否定せず、のちに状況を説明した際には、「時勢に即した、必要な大雑把な正義」だったと述べた。しかし、「良心は清浄だと主張したが、この発言をする際には、『忘れた、忘れた…』と呟き、道を見失ったように見えたのだという。
  17. ^ スミスとアウンサンは個人的な友情を築き、アウンサンはスミスに「私は(国民的英雄に)なりたかったわけではない」「ただ祖国を解放したかっただけだ。だが、今はとても孤独だ」「国民的英雄はどれくらい長く生きられるというのか?この国では長くは続かない。敵が多すぎる……私はあと18か月以上は生きられないと思う」と涙を流して語ったことがあるのだという。
  18. ^ 戦後のミャンマーは経済状態と治安が非常に悪化したうえ、警察官は生活するに十分な給料をもらえず、不満が溜まっていた。
  19. ^ イギリスメディアは概ねこの協定に好意的だったが、ミャンマーのメディアには不評で、「独立の約束は曖昧で、合意内容はビルマ白書に酷似している」と批判した。バー・モウは、アウンサンが「政治的判断において重大な誤りを犯した」と考えた。
  20. ^ カレン州が設置されたのは1951年。
  21. ^ ネ・ウィンの叔父である。
  22. ^ 当選した議員のほとんどは社会党シンパかPVOのボスである地元有力者だった。
  23. ^ 1948年憲法の起草にも携わった法律家で、全ビルマ農民機構(ABPO)の委員長を務めていた。
  24. ^ 2代目のバー・ウはビルマ族、3代目のウィンマウンは仏教に改宗したカレン族だった。
  25. ^ カチン州、シャン州、カレンニー州、チン特別区には限られた立法権と課税権しか認められなかった。ただし、公務員には多くの少数民族出身者が勤務しており、民族差別はほとんどなかった。
  26. ^ 全国大会は年に1回、中央執行委員会は毎週1回開催されることになっていた。
  27. ^ ウー・ヌが議長役を務め、ウー・ヌ中心で議事が進行された。
  28. ^ 閣議では票決は行われず、ウー・ヌが「異論はないか」と尋ね、反対がない場合は議案は採択された。そして1952年以降、閣議議事録には意見の不一致の記録はない。
  29. ^ 内閣は元学生運動家、タキン、日本への協力者で構成され、バー・モウのような1930年だの政治指導者たちは排除されていたので、政治経験の浅い者しかいなかった。唯一、外務大臣のティントゥッ英語版ケンブリッジ大学で教育を受け、インドで公務員としての経験があったが、1948年9月、暗殺された。
  30. ^ ウー・ヌはいずれの政党にも所属していなかった。
  31. ^ シッウンダンも社会党のネットワークを利用して徴兵した。
  32. ^ 1950年に社会党は分裂して、離党したタキン・ルイン、ウー・バーニェインがビルマ労農党(BWPP)を結成した。BWPPはCPBやPVOのCPB支持者と繋がり、彼らの議会への窓口として機能した。
  33. ^ 「首相を辞めて気楽な生活をしたい」とバースエは、あっさり首相の座を譲ったのだという。
  34. ^ アラカン民族統一機構英語版(ANUO)。ラカイン族の政党。
  35. ^ ただしモン州は1958年にモン族の武装勢力が恩赦令に応じて降伏した際に、既に州設置の約束がされていた。
  36. ^ 国軍は憲法で仏教の特別な地位が認められている以上、少数民族と摩擦を引き起こしてまで、仏教を国教化する必要はないと考えていた。

出典

  1. ^ ポパム 2012, p. 126.
  2. ^ 根本 1991, p. 160.
  3. ^ Callahan 2005, pp. 74–75.
  4. ^ 矢野 1968, pp. 403-405.
  5. ^ 佐久間 1984, pp. 57-58.
  6. ^ Thant Myint-U 2008, 9.“THE IRISH OF THE EAST”..
  7. ^ 矢野2 1968, p. 68.
  8. ^ 根本 1991, pp. 160-161.
  9. ^ a b c d e 根本 1991, pp. 161–166.
  10. ^ Lintner 1999, p. 117.
  11. ^ Callahan 2005, p. 75.
  12. ^ 根本 1991, pp. 177-195.
  13. ^ 佐久間 1993, p. 13.
  14. ^ Callahan 2005, p. 94.
  15. ^ 佐久間 1984, pp. 114–115.
  16. ^ Taylor 2015, p. 74.
  17. ^ Callahan 2005, pp. 97–100.
  18. ^ 矢野 1968, pp. 355-362.
  19. ^ Lubina 2019, pp. 147–148.
  20. ^ Callahan 2005, pp. 109–111.
  21. ^ 矢野 1968, pp. 362-367.
  22. ^ Thant Myint-U 2008, 10.DORMAN-SMITH TRIES TO IMPLEMENT THE WHITE PAPER, AND THE LEAGUE IS UNIMPRESSED.
  23. ^ a b 矢野 1968, pp. 367-383.
  24. ^ Clymer 2015, p. 33.
  25. ^ 大野 1974, p. 13.
  26. ^ 大野 1974, pp. 12-15.
  27. ^ Nemoto, Kei、根本, 敬、ネモト, ケイ「植民地ナショナリストと総選挙 : 独立前ビルマの場合 (1936-1947)」1995年1月31日。 
  28. ^ Nu 1975, pp. 134–135.
  29. ^ 矢野2 1968, p. 158‐221.
  30. ^ 矢野 1968, pp. 388-389.
  31. ^ 佐久間 1984, pp. 59–64.
  32. ^ a b c Woodbridge, Jim (1994-01-01). U.S.-Vietnam Normalization...Too Much Too Soon or Too Little Too Late"". Fort Belvoir, VA. https://doi.org/10.21236/ada440609. 
  33. ^ Myint, Zaw Naing (英語). Pyidawtha Programme (1952-1960). https://meral.edu.mm/records/7125. 
  34. ^ Steinberg 2009, pp. 51–52.
  35. ^ 佐久間 1984, pp. 62–67.
  36. ^ Callahan 2005, p. 121.
  37. ^ Lintner 1999, p. 35.
  38. ^ Burma’s Path to Peace Lessons from the Past and Paths Forward”. Asia Pacific Media Services. 2024年8月20日閲覧。
  39. ^ 佐久間 1993, p. 16-17
  40. ^ Lintner  1999, p. 153.
  41. ^ Callahan 2005, p. 114.
  42. ^ 佐久間 1994, p. 16.
  43. ^ Burma’s Path to Peace Lessons from the Past and Paths Forward”. Asia Pacific Media Services. 2024年8月20日閲覧。
  44. ^ Lintner 1999, p. 154.
  45. ^ 足立, 研幾「ミャンマーにおけるセキュリティ・ガヴァナンスの変容」『立命館国際研究』第31巻第4号、2019年3月、65–94頁、doi:10.34382/00002453 
  46. ^ 大野, 徹「ビルマ国軍史(その3)」『東南アジア研究』第8巻第4号、1971年、534–565頁、doi:10.20495/tak.8.4_534 
  47. ^ Bertil Lintner (2014/8/3). The Rise and Fall of the Communist Party of Burma. Kindle. p. 34 
  48. ^ Thant Myint-U 2008, 11.CHINA REDUX—THE INVASION OF 1950.
  49. ^ 佐久間 1984, pp. 122-131.
  50. ^ 佐久間 1984, pp. 132-142.
  51. ^ a b c d e 矢野 1968, pp. 418-424.
  52. ^ a b Thant Myint-U 2008, 11.BURMA’S DEMOCRATIC EXPERIMENT.
  53. ^ 矢野 1968, pp. 425-425.
  54. ^ 矢野 1968, pp. 435-446.
  55. ^ Taylor 2015, p. 543.
  56. ^ Edreteau,Jagan 2013, pp. 90–91.
  57. ^ 佐久間 1994, pp. 78-85.
  58. ^ 佐久間 1984, p. 19.
  59. ^ 矢野 1968, pp. 446-452.
  60. ^ 矢野 1968, pp. 453-464.
  61. ^ 矢野 1968, pp. 465–471.
  62. ^ 佐久間 1984, pp. 23-25.
  63. ^ Thant Myint-U 2008, 11.DEMOCRACY’S DYING DAYS.
  64. ^ 矢野 1968, pp. 488–504.
  65. ^ 佐久間 1984, pp. 28-34.
  66. ^ 佐久間 1984, pp. 34‐38.
  67. ^ 五十嵐, 誠「第6章 少数民族と国内和平」『ポスト軍政のミャンマー : 改革の実像』2015年、157–182頁。 
  68. ^ 佐久間 1984, pp. 34–38.
  69. ^ ミャンマー国軍が「利益に反する」クーデターを起こした本当の理由”. Newsweek日本版 (2021年3月1日). 2024年8月20日閲覧。
  70. ^ Smith 1999, p. 187.
  71. ^ 中西 2009, p. 94.
  72. ^ 中西 2009, pp. 99–110.
  73. ^ Smith 1999, p. 370.
  74. ^ 桐生, 稔、高橋, 昭雄「民主化体制への第一歩 : 1989年のミャンマー」『アジア動向年報 1990年版』1990年、[487]–516。 

参考文献

関連ページ





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「反ファシスト人民自由連盟」の関連用語

反ファシスト人民自由連盟のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



反ファシスト人民自由連盟のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの反ファシスト人民自由連盟 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS