日本降伏からアウンサン暗殺まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 07:27 UTC 版)
「イギリス統治下のビルマ」の記事における「日本降伏からアウンサン暗殺まで」の解説
日本の降伏によって、ビルマは軍政下に置かれた。イギリス当局はアウンサンとその他の関係者を反逆罪および日本への協力の罪で裁こうとした。マウントバッテン卿はアウンサンの大衆人気を考えれば裁判は不可能だと考えた。 戦後、レジナルド・ドーマン=スミス(英語版)総督が帰還した。民政復帰後の植民地政府の政策は、物理的な国の復興の推進と、独立に関する議論の引き延ばしを主軸とした。反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)は、国の政情不安につながるとして政府に反対した。 AFPFLの中でも、戦略をめぐって共産主義者たちとアウンサンや社会主義者との間に亀裂が生じ、1946年7月にタントゥンが書記長を辞任し、つづく10月にはCPBがAFPFLから追放された。 ドーマン=スミス総督にかわって新たにヒューバート・ランス(英語版)総督が着任した。ラングーン警察がストライキを行った。ストライキは1946年9月に始まり、警察から公務員に広がり、ゼネストに近い状況になった。ランスはアウンサンと会見し、AFPFLの他のメンバーとともに執行評議会(Governor's Executive Council)に参加するよう説得することで事態を沈静化した。新たな評議会は国内での信頼を勝ち取り、ビルマの独立のための交渉を開始した。交渉は成功し、1947年1月27日にアウンサン・アトリー協定としてロンドンで締結された。 この合意に対して、AFPFL内の一部保守派および共産党は不満を抱いた。保守派は反対に回り、タキン・ソー(英語版)率いる赤旗共産党(英語版)は地下運動化した。アウンサンはまた、2月12日のピンロン会議(英語版)で統一ビルマに関する少数民族との合意を締結することに成功し、それ以来この日は「ユニオンデー」として国の祭日になった。 その後まもなく、仏教僧出身のウセインダがアラカンで反乱を起こし、それは他の県にも広がり始めた。 アウンサンと社会主義者が主導するAFPFLの人気は依然として高いことが、1947年4月の制憲議会選挙の圧勝によって確認された。 その後、1947年7月19日に国を揺るがす重大な事件が起きた。保守派で戦前にビルマ首相だったウー・ソオは、アウンサンと彼の長兄にあたるバウィンらの内閣メンバーをビルマ政庁での会議中に暗殺した 。以後、7月19日は「殉教者の日」として国の祭日になっている。 社会主義者のリーダーであるタキン・ヌー(ウー・ヌ)が新たな内閣を組織し、ビルマ独立法(英語版)に基づき、1948年1月4日に独立を果たした(ビルマ連邦)。ビルマは完全に独立した共和国となった。これは、インドやパキスタンがドミニオン(自治領)としての独立であったのと対照的だった。これは当時のビルマで反英感情が強かったことが理由になるだろう。
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