日本降伏後の日タイ関係
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1945年(仏暦2488年/昭和20年)8月12日、駐タイ日本大使山本熊一はポツダム宣言の受諾決定をタイ王国政府に通告した。これは日泰攻守同盟条約に基づくものであったが、タイ政府は通告が遅いと不快感を示し、山本大使は突然の決定であったためと弁明した。しかしタイ政府側は11日の時点でこの情報を察知していた。 詳細は「日本軍進駐下のタイ#1945年」および「日本の降伏#ポツダム宣言受諾」を参照 8月15日、山本大使はタイの戦争協力に対する謝意を伝える口上書を渡した。この席で、クアン・アパイウォン首相は対米英宣戦布告を無効にする宣言を発することを日本側に伝達し、山本大使の内諾を得た。8月16日、国王の名の下、摂政プリーディーは、「対米英宣戦布告はタイ国民の意思に反したものであり、日本に強制されて行ったのであり、戦時中の損害についてはすべて補償を行う」という平和宣言を発した。これはタイが敗戦国扱いを免れるための措置であり、自由タイと連絡を取っていた連合国もこの「平和宣言」を受け入れ、現在でもタイの主要な戦争認識である。翌日、プリーディー摂政の元を訪れた山本大使は、「昨日発表せられたる宣言により一日も速かに戦争を終結せられんことは帝国政府の最も希望する所である」と伝えている。タイ宣戦布告無効を日本の内諾を得て行ったのは、当時日本軍がタイ国内に残留していたこともある。9月7日、ナラーティップポンプラパン親王が山本大使の元を訪れ、連合国の要請によるとして、タイにおける日本外交機関の停止を通告した。親王はこれが国交断絶を意味するものではないと説明し、その後もタイ政府は外交関係が一時的に停止しているだけだという見解をとり続けた。 詳細は「日本軍進駐下のタイ#終戦後」および「日本の降伏#停戦後」を参照 9月12日、在留日本人の銀行取引の停止および特定地域からの立ち退きが通告され、9月16日には敵性外国人として、日本人3600人がバーンブアトーン収容所などに抑留されることになった。1946年5月、残留を希望する552人を除く3020人はバンコク港から出港し、帰国した。また在タイ日本財産は連合国に引き渡すために一時的にタイ政府が押収したが、これは1946年までは正式な連合国との協定に基づいて行われたものでなく、横領が頻発した。1952年4月28日に発効した日本国との平和条約によって日タイの外交関係は回復した。タイが押収していた財産は日本側の希望によって日本に引き渡されることとなっていたが、日本側は第三国に過ぎないタイ側の財産侵害は不当であると抗議した。この問題は両国間の懸案事項となり、1953年7月30日の日タイ間合意によって、タイは一定額を連合国に支払うかわりに、在タイの日本財産を手中にすることになった。また、第二次世界大戦中に駐留した日本軍がタイから調達した軍費の弁済については、1955年の日タイ特別円協定によって一応の解決をみた。 1963年6月4日、ラーマ9世国王の内意により、タイ政府関係者が靖国神社を代理参拝した。タイ海軍の練習艦隊乗組員(士官候補生)によって靖国神社の正式参拝も行われている。
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